冬の名残


あれ、という声に、ウィザードの青年は、座ったまま読みかけの本から顔を上げた。
「先輩、もう戻ってたんですか?」
先輩、と彼を呼ぶのは、まだ少年に近い男の声だった。
じっと文字を見ていた為か、乾きを覚えた目を閉じ、指の腹で軽く押さえる。
その後、声の聞こえたほうに目を向ければ、部屋の入口の扉から、金髪の頭を覗かせたノービスがいた。
「夕食の後、そのまま部屋に来たんだが」
「ありゃ、そうでしたか」
ノービスは部屋の中に入ると、扉に鍵をかけた。
二人がいるのは宿の一室である。
二つ置かれた寝台の、扉に近い側に、ノービスは腰掛けた。
「てことは、ずっと読書?」
「ああ」
答えるウィザードは、窓際の机に広げた本へ、また目を戻す。
「そういうお前は、こんな時間までどこに行っていた?」
「え、それって俺がどこかで女の子と遊んでないか、みたいな嫉妬?」
「馬鹿か貴様は」
ノービスには目もくれずに、ウィザードはページを繰る。
「もう少し遅かったら、鍵を掛けようと思っていたところだ」
「そんな事言って、帰ってくれるまで待ってくれる癖に」
「いいや、容赦なく閉める。私が貴様の夜遊びに付き合ってやる義理はない」
「先輩ヒドイ……」
ノービスが大げさな仕草でぼやいた。


足だけで器用に靴を脱ぎ、ノービスは寝台の上にごろりと転がった。
「夜遊びなんて言いますけど、まだそれほど遅い時間じゃないですよ」
寝転がったまま、ノービスはウィザードの向こうにある窓を見る。
満月が、空の半ばほどで金色に輝いていた。
「けれど、わざわざ散歩するような頃でもないだろう」
「えー、そうですか?」
寝台の上、ノービスが肘をついてウィザードを見る。
「散歩に行きたくなるような、良い風が吹いてますよ」
「冷たい風のどこが良いんだ」
ウィザードがぼやくと、ノービスはぱっと思い出したように上体を起こした。
「先輩、この部屋換気してないでしょ?」
ウィザードが答えるより早く、ノービスは寝台から飛び降りて、窓際に駆け寄った。
「空気入れ替えないと体に悪いですよー」
言うや否や、ノービスは閉められていた窓の錠を開けた。
「馬鹿、寒いっ……」
けれどウィザードが文句を言い終わる前に、ノービスは窓を大きく開けた。
吹き込んでくる冷たい風を予想して、ウィザードは目を閉じて首を竦めた。
が、すぐにゆっくりと目を開いた。
「寒く、ないな……」
窓から吹き込んでくるのは、春風にも似た、仄かに暖かい、柔らかな風だった。
「良い風でしょ?」
ノービスはにっこり笑うと、窓の外に身を乗り出した。
月明かりを反射してキラキラ光る金髪が、穏やかな風に揺れていた。


部屋の中に吹き込む風の心地良さに、ウィザードは本を開いたまま、少しだけ目を細めた。
「もう冬も終わりですかね?」
ノービスが振り返り、ウィザードに尋ねる。
「流石にまだ早いだろう」
そう呟いたウィザードは、細めていた目を閉じ、指で軽く押さえた。
冷たくないとはいえ、本を読み続けていて幾分疲れた目には、夜風は少々染みた。
「先輩、花粉症?」
「それもまだ早いだろう」
どうですかね、とノービスが呟く。
「早い人は冬のうちからでもなるって言いますし」
「別に痒いんじゃない。ちょっと乾いたんだ」
指を離して目を開くと同時に、すっと上体が椅子の背に倒れるような感じがした。
いつの間にか背後に回っていたノービスが、ウィザードを引き寄せるようにして、額に触れていた。
「……おい、何してる」
言いながらノービスを見れば、彼は反対の手を自分の額にあてていた。
「熱あると目乾きやすいじゃないですか。だから調子悪いのかなって」
少し考え込むような顔をして、ノービスはうん、と頷いた。
「やっぱりちょっと熱いかも」
「そうか?」
全然気付かなかった、と呟き、ウィザードは本に目を戻そうとした。
途端、視界を塞がれた。


目を塞いだのは、間違いなくノービスの手の平である。
額にあてられていた手が、瞼を押し下げるように滑り落ちたのだ。
「……見えない」
文句を言えば、ノービスはだって、と口を開く。
「見えたら本読むんでしょ? 熱上がりますよ」
「そんな簡単に」
「体弱い人が無理しないの」
ウィザードの反論を遮るようにして、ノービスはそう言うと、反対の腕で、ウィザードの上体を椅子の背ごと抱きしめた。
「おい」
「体冷やさないようにしてるんじゃないですか」
まだ冬なんだし。
そう言われれば、ウィザードも反論が出来ない。
ならば先に窓を閉めろ、と言おうとして、けれどウィザードは口を開いただけで止めた。
何も言わずに口を閉じると、ノービスが笑う気配がした。
ノービスの手の傍、ウィザードの鼻先を、穏やかな風が吹き抜けていった。
暖かい風は、微かに花の香りがするようだった。
今すぐではなくても、きっとそのうち、春がくる。
けれど、あともう少し。
もう少しだけ、冬が続けば良い。
そうすれば、まだ背後から伝わるぬくもりを、離さない為の言い訳が出来る。
動けないまま、ウィザードはそう思った。






戻る