解れる距離



静かな宿の一室に、ぱさり、と紙を繰る音が響く。
遅い朝の光が入り込む窓辺で、ウィザードの男が本を広げていた。部屋に注がれる日差しこそ暖かいものの、窓の向こうでは、冷たい秋の風が吹いているのだろう。ひやりとした空気に、ウィザードはそっと首を竦めた。
「……先輩、これは酷いっすよ」
先輩、と呼ぶ声に、ウィザードは追っていた文字から目を上げた。
窓ガラスに映るのは、開いた本を持った自分と、その背後に立つノービスの姿。
「これもう、凝ってるとかってモンじゃないですよ。がっちがちに固くなってます」
ガラスの上のノービスが、げんなりした表情でウィザードに向かって呟いた。彼の手は、座り込んでいるウィザードの肩を丁寧に揉んでいる。その様子を、ウィザードは何も言わずに見つめていたが、やがて窓に映るノービスへと目を向けた。
「そんなにか?」
「そんなにです」
無頓着なウィザードの言葉に、ノービスは肩を揉む手にいっそう力を込めた。

本を読んでいるウィザードの表情が、随分と険しいことに気がついたのは、朝食の後だった。
先輩と慕うその人が、元々にこやかではないことなんて、ノービスは嫌というほど理解していた。それにしても、ただの魔術書を読む表情にしては、ウィザードの表情はあまりにも剣呑に過ぎた。
「先輩、もしかして肩凝ってません?」
ふと思いついて尋ね、拒否するウィザードをなだめすかし、肩揉みをさせてもらうに至ったのが、数分前。
拒否するぐらいだから、大したものではないだろうと思っていたのだが。
――よくまあ、今まで平気だったなあ。
凝っているどころか、石化しているのかと思うぐらいに固くなったウィザードの肩を揉み解しながら、ノービスは顔を上げた。
窓の中には、既に読書に戻ったウィザードの姿があった。
何食わぬ顔で本を読み続けるウィザードを見つめているうちに、ふっとノービスの口元に笑みが浮かんだ。


「何だ?」
気付いたウィザードが、窓の中からノービスを見つめてくる。
「……いや、凄いなって思っただけです」
そう答えて、ノービスはウィザードの後ろ頭に視線を落とした。何か言いたそうな顔をしたウィザードだが、結局、それ以上は何も言わずにまた読書に没頭した。
ウィザードが本に意識を向けたのを確認して、ノービスはちらりとウィザードの顔を盗み見た。
やはりウィザードは、特別な表情を見せることなく、ただ本を読み続けている。
肩を揉むノービスすら、気にすることなく。
その事実に、ノービスはひとり、笑いたくなるような嬉しさを覚えていた。
いつの間に、ウィザードはこんなにもノービスが傍にいることを許してくれていたのだろうか。
何かあればついていこうとするノービスを、目の前の先輩は、邪魔と言ったり、鬱陶しがったりする。
それなのに、手が触れるほどの今の距離に、ウィザードは何一つ文句をつけてはこない。文句どころか、気にする様子すら見せない。
これって、実は凄いことなんじゃないだろうか。


口元が緩むノービスに、ウィザードが気付いた様子はない。それでも、ふと何かを思い出したかのように、彼はノービスに声をかけた。
「おい」
「何ですか?」
にやけた表情を慌てて取り繕って、ノービスは答える。
窓の中のウィザードは、自らの肩に置かれた手と、ノービスの顔を交互に見やってから、こう尋ねた。
「お前、本当に揉んでるのか?」
「……はい?」
予想しなかった質問に、ノービスは軽く瞬きした後聞き返した。
「えーと、結構力入れてると思うんですけど」
ノービスが呟けば、手が乗せられたままの肩を、ウィザードは竦めてみせる。
「さっきから全然感じないんだが」
心底不思議そうな表情を見せたウィザードに、ノービスは一瞬硬直した後、大きくため息を吐いた。
「そりゃあ先輩、肩凝り過ぎて、感覚おかしくなってるんですよ」
渾身の力を込めて、ノービスはウィザードの肩を掴む。しかし、ウィザードは全く表情を変えなかった。
「……本当だ」
「本当だ、じゃないでしょ!」
揉むのを止めて、軽く叩きながらノービスが言う。
「次からはこうなる前に言って下さいよ!」
つまるところ、ウィザードは気にしていないのではなく、気付いていないだけだったのだろう。
浮かれてしまった自分が、なんだか随分と情けなく思えて、ノービスはやけのようにウィザードの肩を叩く自分の手へと視線を落とした。 だから、彼は気付かなかった。
窓ガラスに映るウィザードが、気持ち良さそうに目を細めていたことに。





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