ラストラン100系新幹線

 2003年9月16日、東海道新幹線に新たなる歴史が刻まれる。100系新幹線の引退である。その最後を見送るべく、私は早朝の東京駅へ向かった。

 朝の8時、東京駅は通勤客とファンが混じっての混雑を見せる。東京駅16番線は4年前の9月18日午後4時半を髣髴させる光景であった。そう、世界の鉄道の頂点に君臨した稀代の名車両、0系新幹線電車の引退の日である。そのときと同様にこの日も最終列車出発式の準備が日本橋口付近で着々と進められ、報道陣も忙しく走り回っていた。

 8時10分、最終列車出発式のため、時刻表の時刻より早く100系新幹線の最終電車である「ひかり309号」が入線してきた。ホームに群がる烏合の民の目はただ一点に注がれ、最後の100系は東京に停車する。編成番号はG49。4年前の0系の時と同様、先頭車は最終増備の一つ前の番号を持つ編成である。


最終営業列車 最後の東京駅入線

 前面、側面の装飾には写真機や映写機を持った烏合の民が集まり、各々が満足するまで撮影を行った。私はそれが終わると引退セレモニーを待たずに19番線へと向かった。

 8時26分、私は「ひかり205号」の車内に居た。「ひかり205号」は16番線にて別れを惜しむ民を横目に東京駅を滑り出し、一路新大阪へ向かった。10月1日の新幹線革命の核となる品川駅を通過するころ、「ひかり309号」は見取る民を背に、新大阪への帰らぬ旅に出る。

 「ひかり205号」は「ひかり309号」の斥候として彼の4分前を走り続け、各駅で待ち構える民に「ひかり309号」の接近を知らせた。「ひかり309号」は足の遅さをその列車のダイヤでカバーしながら、ひたすら斥候を追走する。

 11時16分、斥候「ひかり205号」は新大阪25番線に到着した。本来ならば23番線の到着だが、大いなる旅路を終える彼をねぎらう民のため、そこを空けているのである。

 11時23分、ついに旅路を終えた「ひかり309号」は新大阪へ到着した。ホームに群がる烏合の民の視線は再度一点に注がれた。旅の楽しみを提供し続けた彼の旅はここに幕を閉じたのである。


最終営業列車 最後の停車場へ到着

 引退式を終え、11時37分、惜別の警笛と共に彼は新大阪を後にし、2度と帰らぬ地へ向かった。彼の大いなる旅路は、ここに終わったのである。

〜100系 引退〜

 100系が去った後、私は暫く新大阪駅に居た。くしくも1時間後、100系を淘汰し新時代の幕を開くべく登場した700系の最終増備車C54編成が試運転で新大阪に到着した。試運転列車を見送った後、私はホームを後にし、コインロッカーに荷物を預けて昼食をとり、地下鉄御堂筋線に乗車して淀屋橋に向かった。

 淀屋橋から京阪電車に乗換え、門真市へ向かう。あまり関西の私鉄には詳しくないので、あちこちで降りたり乗ったりを繰り返して、時間を掛けて門真市へ向かった。

 門真市からは大阪モノレールに乗る。南摂津と摂津の間の車内から、新幹線の鳥飼基地、大阪第一車両所が見える。中央付近の留置線で、彼は静かに休んでいた。

 万博公園で下車して万博公園に向かう。有名な岡本太郎氏の作品である太陽の塔が目の前にそびえ、静かな緑に包まれた地にしばし時間を忘れ、歩く。広い公園内は川のせせらぎが聞こえ、虫達が思いのままに動き回る桃源郷であった。かつてはこの地は、世界中の人々が訪れた博覧会が行われた。敷地内に点在したパビリオンは姿を消し、動くパビリオンと呼ばれた東海道新幹線の0系電車もすでに帰らぬ旅路の中にある。


太陽の塔

 再びモノレールに乗り、蛍池で阪急の宝塚線に乗り換える。そのまま梅田へ行き、新大阪で荷物を拾って御堂筋線で江坂へ。江坂のホテルに再度荷物を置き、御堂筋線に乗り難波に向かった。

 ミナミは活気にあふれ、くしくも彼のデビューの年に優勝した阪神タイガースが昨日優勝を決め、ファンの熱狂は未だ覚めず、戎橋には声を上げる民が集まり優勝を祝っていた。私は2年前の夏と同じ寿司屋に行き、過去の思い出をかみしめるようにミナミの地を歩いた。町は彼の引退を知るわけも無く、ただ阪神タイガースの優勝を祝っていた。

 暫し御堂筋を歩くこと、本町の駅から御堂筋線に乗り、江坂のホテルに帰った。

 翌日、私は「のぞみ60号」に乗り、大阪を離れた。新大阪を発車して数分後、左手に鳥飼基地、大阪第一車両所が見える。彼はまだそこに佇んだままだった。2度と帰らぬ彼に別れを告げ、私は横浜での日常へと戻っていく。

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