GWに父親の実家に帰省することになった。GWに遠出するのは久々である。
乗車するのは寝台特急「出雲」。 横浜から鳥取までダイレクトで結ぶ、尾久客車区所属の寝台客車を使用する東海道唯一の正統派寝台特急である。
横浜駅を21時35分に発車した。次に停車するのは約1時間後の熱海。まさに長距離列車。で、時間があるので暇つぶし開始。
戸塚を21時46分通過、大船を21時51分通過、藤沢を21時56分通過、辻堂を22時01分通過。ここで貨物線をEF200が牽引する貨物列車が追い抜いていった。
茅ヶ崎を22時04分通過、平塚を22時10分通過、大磯を22時12分通過、二宮を22時16分通過、国府津を22時19分通過。ここには見慣れない列車が停車していた。
鴨宮を22時21分通過。辻堂で抜かされた貨物列車をここで追い抜き、ここから小田原までは回送の300系新幹線と併走し、小田原手前で出雲は新幹線を抜いて小田原を22時23分に通過、続いて早川を22時24分に通過、根府川を22時28分に通過、真鶴を22時33分に通過、湯河原を22時35分に通過、そして、熱海に22時39分に到着した。
熱海の手前で車内放送が終了し、客室灯が減光されて完全な夜行モードに入った。これにあわせて私も寝ることにした。
目が覚めた。京都だった。ここから山陰本線に入る。城崎から伯耆大山までは電化されていないので、ここから機関車がDD51に交代する。寝台特急を牽引する機関車としては、唯一の朱色の機関車である。
京都の1番線を発車すると、山陰本線に入り、丹波口、二条、花園など、中学校の修学旅行で利用したような懐かしい駅を通過していった。このあたりは、往年の名門山陰特急「あさしお」で通ったことがあるのだが、嵯峨嵐山より先、馬堀までは、当時は保津川に沿って走る有名な車窓風景を楽しめたが、電化された現在はトンネルで短絡されている。私はトンネルで短絡されたこの区間を乗車するのは初めてであった。ちなみに、当時の線路は嵯峨野観光鉄道となり、トロッコ列車が走っている。
いかにも近代路線というようなトンネルで短絡された路線を走る客車。もちろん深夜なので、トンネルの出て鉄橋を渡るとしても肝心の保津川は見えなかった。馬堀を通過するとトンネルも無くなり、外は真っ暗。私はもう一度眠った。
朝はいつもどおりの時間に起きてしまった。ここは綾部、ずっと外を眺める。福知山、まだまだ時間はかかる。次は豊岡に停車。所要時間は約1時間である。列車は朝霧が立ち込める中、カタカタと軽快なリズムを奏でながら進んだ。
豊岡に停車。豊岡を発車すると次は城崎でその間に玄武洞を通過する。所要時間はわずかである。そして、城崎を発車するといよいよ非電化区間に突入。次は香住に停車。
香住に着いた。午前7時、香住を発車、そしてこれからが寝台特急出雲の一番の名所、餘部鉄橋を通過する。そして、鎧を通過するころに放送が入り、「まもなく列車は高さで有名な餘部鉄橋を通過いたします。」と告げた。そして、トンネルをいくつか抜けると視界が開けた。高さ44mの大鉄橋を列車は通過していった。
餘部鉄橋からの眺め
餘部、久谷を通過していよいよ浜坂に到着。ここから鳥取までに限って車内販売が乗車する。私はわざわざ10号車から車内販売の行われる食堂車(5号車)まで歩いていった。ここで購入するのは名物駅弁「元祖かに寿司」である。値段も千円以下のお手ごろなものなので、皆さんも是非どうぞ。
鳥取駅に到着。私は下車。列車はここで数分間停車する。列車を見送った後に、私は役を後にした。本来ならここから因美線で父の実家に向かって片づけをするはずだったが、都合により無しになったので鳥取周辺で時間をつぶすことになった。私はとりあえず、鳥取城跡に向かった。
駅の北方、久松山に位置している。しばらく歩いて堀を渡ると、右手に高校、左手に城跡というなかなか面白い位置関係であった。そして、とりあえず城跡を散策したが、天守閣までが大変であった。
ここが鳥取城跡の櫓(やぐら)跡です。ここは二番目に低い場所からの眺め。 |
ここはさらに上の場所からの眺め。中央やや左の台がこの画像の上の画像を撮影した場所。 |
で、さらに上に上り続けて天守閣の跡から下界を眺めてみましょう。 歩くこと30分。ここまで来ました。 ちなみに天守閣はあまりに高いので、落雷が直撃して焼失しました。 |
反対側には鳥取砂丘が見えます。 |
鳥取状は因幡32万石の池田氏の城である。そんなことよりも吉川経家が豊臣秀吉との篭城戦の結果として破れ、部下の生命の保証と引き換えに自殺をしたというエピソードのほうが有名かもしれません。とにかく、そんな由緒ある鳥取城はこのような場所であります。
鳥取城跡を後にして、その近くにある仁風閣にむかった。ここは明治時代の洋風建築で、当時の皇太子(大正天皇)が宿泊するために作られた建物である。東側には日本庭園のようなつくりの庭もあり、植えられている木々にはその木の名前と説明が書かれた札がついていた。
仁風閣をしばらく眺めて、その後はその南側にある花壇に咲いたつつじを見ながら時間をつぶし、適当に歩き始めた。
しばらく歩いた。とにかく歩いていった。途中、千代川を渡った。この千代川から運ばれてきた土砂が、潮と風によって運ばれて出来たのが鳥取砂丘である。それにしても幅の広いこと。100m以上の長さがありそう。
そして、数時間に渡り歩き続け、湖山まで来てしまった。せっかく湖山まできたら、少し歩けば鳥取大学前まで歩いて行った。
鳥取大学前から快速鳥取ライナーに乗って鳥取まで戻ってきた。鳥取にて両親と合流した。以降はプライベートなので省略させていただきます。
翌日、父親の実家から因美線を眺める。特急「いなば」が通過して行った。
父の実家から撮影
そして、この日は摩尼寺へ行った。とても荒れ放題であった。皆様のたくさんの賽銭で再建させてあげてください。よろしくお願いいたします。