東海路線の旅

 今年も夏がやってきました。今回は東海路線という訳で、JR東海大好き人間のコッシーと共に行きました。

 待ち合わせは朝の新宿駅。私は横浜から青春18キップを使って横浜から乗車しました。ホームに駆け上がると列車のドアが閉まって、発車してしまい、仕方ないので、次の列車を待ちました。次の列車は10分後の東京行き。22分後には湘南新宿ラインの小金井行きがあった。

 東海道線に乗車し、品川で山手線に乗り換える。品川に到着すると2番線に新型の山手線(E231系500番台)が停まっていたので、間に合わないだろうと思い、ゆっくりと歩いて次の列車に乗ろうと山手線ホームに向かった。2分ほどかけてホームにおりる階段に着くと、まだ列車は停まっていたが、ベルが鳴っていた。急いで降りていったが間に合わず、列車は発車していった。まあ、次がすぐ来るだろうと思って発車案内を見ると時刻表示が消えている。なんかやな予感……。するとホームに放送が入り、「業務連絡。外回り神田発車。」と。オイオイ!待ち合わせ時刻に間に合わないよ!と3番線に滑り込んできた北行きの京浜東北線に駆け込んで、急遽東京に向かった。東京の手前の有楽町でやっと続行の山手線外回りを見ることが出来た。

 東京駅に着くと、急いで中央線ホームに駆け上がり、ちょうど発車間際の特別快速列車に乗ることが出来た。定刻通りに運転していたが、待ち合わせの時刻に20分も遅れた。しかも湘南新宿ラインに乗ったほうが速かった。新宿から乗るのはホリデー快速ピクニック号。9番線から発車のはずが何故か特急列車が停まっていた。発車番線が変更になっていたのです。
 快速列車は中野方面から入線し、なかなか扉が開かなかった。炎天下だったの待っている時間がかなり辛いのです。
 列車に乗った直後に中央線が遅れだし、私、かなり危ない橋を渡っていたことにいまさら気付き、まあ間に合ったから良かった良かったと一安心です。

 新宿を発車すると、車窓右手には詰まりに詰まった中央線の列車が数本ぞろぞろと列をなして停まっていた。こちらは快速なので駅をとばしながら走っていくが、時々妙に遅く走ったりしたので、何かあるのかと悪い予想ばかりしてしまうが、単に前が詰まっているだけでその他のなにものでもないのでした。
 暫らくするとなにやら車窓右手を延々と工事しているので何かと思えば単なる高架化のための工事なんですね。小田急のようにならないでくださいな。

 高尾に到着すると鞍馬天狗がお出迎え。ってデカッ! しかも生首! もちろんホームに置いてある鞍馬天狗の石像です。コッシーより鼻が高いです。ハナターカダーカー! 次は相模湖で少々距離があるらしいが、約8分で到着。一駅なのにけっこう時間がかかるが、これ以上長いところを知っているので大して長く感じなかった。次は上野原、その次が大月で、前の3両を切り離して別々の方向に向かう。

 大月に到着した。さっそく降りて切り離し作業を見ようかと思ったが、密着連結器なので気が乗らずに、留置線に停めてあった山スカ色と呼ばれる城と青の115系の写真を撮って、ホームの端から端まで全力疾走したりして運動不足発散。そのうちに反対側のホームに東京行きの「スーパーあずさ」が到着した。東京行きはちょっと珍しいなと思いながら快速列車の前のほうに行くと、かなり混んでいる。一方の後ろのほうはまだ空席があり。この差は何なんでしょう? 帰省ラッシュでもっと混むかと思ったのに。

 大月を発車すると左手の富士急行が分かれていき、暫らくすると山梨リニア実験線のシェルターが見えたりしてなかなか興味深い場所であります。ここまで来るとさすがにオレンジの201系を見ることはなく、長野色の115系が時々すれ違います。ここはもう甲斐の国。

 甲斐の国といえば風林火山で有名な武将「武田信玄」の本拠地ですね。個人的には好きですが、途中で病死しちゃうんですねこれが。んで、山梨の名産はなんといってもブドウであります。勝沼ぶどう郷駅停車して、車窓からブドウ畑は何処かいな?と探してみると、徒歩約4kmとのこと。遠い・・・・・・。

 この快速の終点、甲府駅に到着。車窓左手にはJR東海の身延線の313系。右手には115系の訓練車。珍しいものです。ここから普通列車に乗り換えて岡谷まで行く。到着した列車は長野色の115系。車内は白と青の2色で統一されたとても綺麗な車両です。甲府を出て各駅に停車し、小淵沢では小海線のキハ110系がお出迎え。小淵沢を出ると単線となり、ローカルな装いを見せてきた。そもそも中央本線は東海道本線より東京から名古屋・大阪を結ぶ大動脈として整備されるはずだったが、物資や資金の関係からか東海道本線が大動脈として整備された。よって中央本線の中央部は未だに田舎路線に近いものとなっている。

115系信州色
115系長野色

 上諏訪を発車し、暫らく走ると車窓左手に諏訪湖が見える。水質が良いためにきれいな水を必要とする半導体メーカーやカメラをはじめとする光学機器メーカーの工場が集中して建っている場所である。車窓からもセイコーエプソンなどの有名な会社の工場が見えた。

 岡谷に到着すると飯田線に入る普通列車に乗り換える。列車の到着が遅れたために乗り換え時間は1分もなく、重たい荷物を両手に線路を挟んだ反対側のホームまで走った。列車には余裕で間に合い、先頭車に乗ってボックスシートに座った。岡谷を発車して2駅で辰野に到着。ここから飯田線にはいる。飯田線はここ辰野からはるばる豊橋を結ぶ一大ローカル線でJR東海の管轄。車両は国鉄で製造されてJRに引き継がれた119系。この列車は登場時は国鉄としては珍しい水色と白の地域カラーをまとっていたが、JR化後にはJR東海カラーのオレンジと白に統一されてしまっている。他の線区の車両とは逆の流れをたどった珍しい車両だった。
 また飯田線には読みの難しい駅名がたくさんあるのも特徴。皆さんも時刻表を見て読みを想像してみて下さい。

119系東海色
119系

 私達はとりあえず飯田まで行くことにしていたので岡谷から約2時間乗ることになる。飯田線は路線規格が低く、全くスピードが出ないために距離の割には時間を食う。岡谷から飯田まで75.9kmで2時間8分。表定速度は35.58km/h。大都市の路線のおよそ半分。

 飯田線に入り車窓右手は山。左手は川を挟んで山という地形が続く。そもそも日本の鉄道は川沿いに線路を引いてきたものなので当たり前と言えば当たり前である。駅に着くと手動でドアを開け、車掌さんがホームに降りて切符の回収と精算を行い、それが終わると再び車内に入って運転手がドアを閉めて出発。これを幾度となく繰り返して列車はすすむ。田舎路線だが乗車率はそこそこで、所々に空席がある程度であった。伊那市や駒ヶ根などでお客さんが乗り込んで、小さな駅で降りていく。時折列車交換の出来る駅では国鉄風の片開き分岐器を組み合わせて安全側線を付けた駅があったりして、どちらかというと国鉄フリークな私は楽しかった。

 2時間があっという間に過ぎてしまいあと数駅で飯田という所で緊急事態が発生。伊那市あたりから乗ってきて、どこまで行くかは知らないが所要時間をかなり気にしていたお客さんが一人いて、伊那上郷(いなかみさと)で乗ってきたお客さんがその人が痙攣を起こしているのに気付き車掌に報告。飯田駅に救急車の手配をしてもらった。私達はどうすることも出来ないのでとりあえず職員の方の邪魔にならないようにしていた。飯田駅に到着するとすぐに列車を降りて道をあけた。職員の方が車椅子を持って来てその人を乗せて運んでいったのでとりあえず一安心であった。列車が発車する頃までホームに残ってから駅を出て、隣にあった信州そば(?)の店でかなり遅い昼飯を食べていると後ろを救急車が通過して行った。

 今日は飯田で一泊。泊まる場所は駅からそれほど遠くない「ホテルニューシルク」である。とりあえず荷物を置きにホテルへと向かった。ホテルでチェックインを済まして部屋に荷物を置き、暫らくしてから出発。駅前で聞きなれた音と共に列車が発車していった。373系特急「伊那路」であった。見ることが出来なかったため、コッシーはがっかりしていた。

 飯田駅に停まっていた列車に乗り、南へ向かった。湘南色の115系であった。車内には4両編成の表記があったが実際には3両編成であった。列車は飯田を発車し、次の切石駅に停車した。この切石駅、トンでもない急カーブの場所にムリヤリ駅が造られていて、曲線の外側にホームがあるために、車両の中央のドアとホームとの間が異常に離れていて危険である。うわさどおりかなり離れているので地元の人?も「こわい。」と言っていた。
 次の停車駅は「鼎」駅。縁起のいい駅なので降りてみた。一応駅員がいる駅だが切符の自販機などは無く、あくまで田舎駅である。駅を出て南の方へと歩いて、線路を渡って畑の中の道をテクテクと歩いたが水路は見えても川は見えず。「天竜川ってドコ?」てな感じで彷徨ったのでありました。あまりの暑さでコッシーがダウンしかけ、私もふらつき始めたので駅に引き返した。ちょうど数分後に列車が到着して飯田に戻った。

鼎駅

 飯田に戻ると駅を出て近くにあった地図を見ると飯田線がいかにヘンな路線形をしているかがわかった。飯田駅から鼎駅までほとんど一直線で歩いていけるのだった。時間もまだあるので市内を散策することにした。駅を出てすぐに選挙カーが出現し、まだ公示されていない知事失職に伴う長野知事選の田中康夫応援演説をはじめた。知事不信任に反対した日本共産党の選挙カーだった。後からお偉いさんも来るようだった。
 南側に向かって歩き、建物の構造についてコッシーと話が弾んだ。暫らくするとなにやら碑があるのでそこで休憩した。休憩を終えるとさらに歩きつづけ、1時間以上歩いた末に駅前のユニーで買い込みをしてホテルに帰った。

 ホテルでは買ってきた食材を食べながらニュースを見たりして無駄に過ごした。夜は星がきれいかと思いきや、急に曇りだして全く見えない。遠くで花火が時々あがるのが見えたが。NHKの歌番組を見ながら2時間を過ごしてその後寝た。

 朝5時起床。いつものように起きる必要が無いのに起きてしまう悲しい身体である。約4時間を無駄に過ごして出発。
 飯田駅の立ち食いそばで朝食を摂り、列車に乗って一路天竜峡へ。暫らくすると車窓左手に川が見え始め、終点の天竜峡駅まで続いた。
 天竜峡駅からは始発の列車に乗って中部天竜まで向かう。運転室の後ろの窓にはシャッターが降りているため、トンネルが多いことは予測できた。天竜峡駅を出発するとすぐにトンネルに入り、その後も幾度とトンネルに入る。二駅ほど過ぎたところで前を見てみると、トンネルの入り口に「133」の表記が。おそらく豊橋から数えてこのトンネルは133ヵ所目のトンネルという意味であると思う。かなりの数だ。車窓右手には天竜川の荘厳な景色が広がり、列車で天竜下りをしているようだった。駅も川の上にあるようなものがあり、「ほんとに利用しているのか?」と疑問に思うほど山と川に囲まれていた。

天竜川
こちらが本物の天竜下り

 列車は小和田駅に到着した。ここからは静岡県。景色はたいして変わらないが静岡県。あと七つで中部天竜に到着。けっこう長い。ついでに停車時間も少し長かった。 小和田駅を発車し、次に停車するのは大嵐(おおぞれ)駅。かなりの難読駅名である。大嵐駅を発車すると水窪駅、向市場駅、城西駅、相月駅、佐久間駅と停まり中部天竜駅に到着。このあたりは数日前に最高気温39度を記録していたのでかなり暑いかと思ったがそうでもなく、普通に暑かった。

 中部天竜駅といえば構内の佐久間レールパークに行くしかないでしょう!!という訳でさっそく佐久間レールパークへ。目当てはもちろん新幹線0系の運転台。一直線に向かった。しかしこの暑さ、炎天下にさらされている車両は当然エアコンなど稼動しているわけもなく、車内は物凄い暑さであった。0系も例外ではなく、車内の鉄板は触ることが出来ないほど熱く、車内も相当暑かった。そこでマニアな私はまず、二枚の遮光板を下げて直射日光をカットした上で、運転士側・助手席側の側窓のロックを外し(オリジナルのまま固定されていなかった)、ガシャンと側窓を開け、さらに乗務員扉の窓も開けて風通しをよくした。これが意外に好評で、子供連れの家族が運転室の側窓から顔を出して記念撮影するのがよく見られた。
 0系の運転台は2000番台のものだったので、残念ながら0番台とは少し違いがあるようであった。ある程度見たらもう一つの目当てであったキハ181系に向かった。なんとキハ82系と並べて展示されている。キハ181系は「しなの」のヘッドマークを掲げたキハ181−1であった。塗装は国鉄色をまとっていた。私は主に床下に興味があったのでエンジン等の床下機器を眺めていた。よく見ると台車がオリジナルのものではなかった。車内は見ることが出来なかったが、よじ登って見るとなんとJR四国仕様。見かけだおしだった。
 資料館らしき場所に入るとありがちな模型のジオラマが。インチキくさい模型編成が走っている。おまけにショーケースに入っている模型は脱線転覆しているものがあった。
 となりにあった図書館らしき建物に入り、貴重な資料を頭に叩き込んで昼食として信州そばを食べて、記念の下敷きを買って、クイズを答えてワイドビュー伊那路を見て中部天竜を出発。

佐久間レールパーク
佐久間レールパーク

 列車は湘南色の115系。列車に乗り込みすぐに睡眠体制で豊橋までほとんど寝て過ごした。豊川に着くとようやく我がアステルグループのPHSに電波が入るようになり、今まで電源をつけっぱなしにしていたのをはじめて電源を切った。

 豊橋に着くと一旦コッシーと別れ、本日の宿泊先、「ビジネスホテル三井」に向かった。北側の出口を出て、どう見ても東急の電車である豊橋鉄道の線路脇をテクテク歩いてホテルへ。一見ホテルに見えない建物が本日の宿泊先。中に入るとダンディなオーナーらしき人が出てきて手続きをして、2階の洋室へ。一人部屋で一泊4000円。かなりリースナブルな料金だがそれに見合って狭く、設備も良いとはいえない。泊まるだけなのでこのくらいで十分だが、懐かしいダイヤルをガチャガチャと回す電話機が置いてあった。懐かしすぎ!

 ホテルに荷物を置き、豊橋駅に戻ってコッシーと合流。ちなみにコッシーはホテルに泊まるのをやけに嫌がるので別行動になった。豊橋駅の新幹線ホームの下り名古屋寄りにカメラを構えて列車を見ていると、駅員さんが話し掛けてきた。JR東海にしては気さくな駅員さんだった。数日前の昼間に932系ドクターイエローが通過したらしい。

 豊橋駅を出て線路脇をしばらく歩き、一回りしたあとまたしても信州そばを食べてコッシーと別れ、豊橋の町を一人でぶらついた。路面電車が走っていた。のろうかと思ったが、夜も遅かったのと、ホテルをはぜんぜん違う方向に行ってしまうので乗らずに沿線をしばらく歩いた。豊橋の町はとにかくアートが多く、彫刻がいくつも並んでいて、駅前にはストリートミュージシャンがたくさん居て、うまいといえばうまいし普通といえば普通の歌を披露していた。

 ホテルに戻って特にやることもないのでとっとと寝て明日に備えた。次の日いつものように朝5時に目がさめ、7時にチェックアウトして豊橋駅へ。コインロッカーに一部の荷物を預け、カメラを持ってまたしても新幹線ホームに。今度は正反対の上りホーム東京寄りに立って、コンビニで買ったおにぎりを食べながら撮影の準備をノンビリしていると500系の「のぞみ1号」が通過していった。「しもうたー!!」
 気を取り直して撮影。朝なのでこだまが頻繁に到着。通過列車もそれなりにある。そこそこ写真を撮ったところでホームを出て、コインロッカーへ。

 コインロッカーで預けていた荷物を取り出していると、後ろのほうで「ガツン!!」と鈍い音が……。振り返ると若い女性が倒れている。びっくりして駆け寄って「大丈夫ですか!!」「大丈夫ですか!!」と大声で声をかけると、意識を取り戻し、「ああ……、大丈夫です……。」と言った。ちょっとふらついていたので「本当に大丈夫ですか?」と訊くと、「大丈夫です……。ごめんなさい……。」と言って行ってしまった。まあ意識はしっかりしているので大丈夫かなと思いながら、浜松行きの列車があと2分で発車するので急いで荷物をまとめてホームに全力ダッシュした。が、間に合わなかった。仕方なく次の列車に乗ることになった。それにしても彼女、本当に大丈夫だろうか……?

 到着した列車は117系。2扉転換クロスシートの国鉄としては地域色の濃かった車両である。現在ではかなり陳腐な存在であるが……。豊橋を発車し、しばらく走ると左手にはうなぎが有名な浜名湖が見える。現在は海とつながった鹹水湖であるが、昔は海とつながっておらず、淡水湖だったらしい。海とつながった原因は数百年前の大地震だとか。
 豊橋で乗ったときからずっと先頭車運転台後方を占拠して、浜名湖を渡る頃には後ろのほうがいつの間にか満員になっていたが、首都圏のこの時間の混雑と比べれば大したことは無かった。ただ、網棚に乗せた荷物が取れない……。

 浜松駅に到着すると線路前方左手になにやら大きな建物が。いつも深夜に利用するのでこんなものがあったのかと、駅を出てそこに向かって歩いていくとコッシーから電話が。もうすぐ浜松に到着するようだ。ちなみに彼は昨夜のムーンライトながらで東京へ向かい、同列車が折り返しの静岡行きの普通列車、静岡から浜松行きの普通列車を乗り継いできた。北側の大きな建物に居るとは言っておいたがこちらに来ることは無かった。

 建物の名は「アクトタワー」低層部の8階までがアクトプラザというショッピング&レストラン街の通称アクトシティ。27階までがオフィスゾーン。その上の44階までがオークラアクトシティホテル浜松で、6階から専用エレベーターで行ける45階は展望スペースの「展望回廊」である。高所恐怖症の私はもちろん上るしかない。という訳で展望回廊へGO!!

浜松駅南側の景色
浜松駅南側 奥には遠州灘

 展望回廊までは専用エレベーターで約1分。もちろん有料である。高さは185mで日本一高い我が横浜のランドマークタワーより90mほど低いが、金ピカのエレベーターのうえに、外が見えるためになんだが気分が変になりそうでした。展望回廊は営業開始時間直後だったためか、あまり混んでおらず、良い眺めを見ることができた。南側は足元にJR浜松駅、前方には遠州灘。北側には南北アルプスや自衛隊の基地、全く目立たない浜松城などが見えた。当然、走ってくる新幹線もかなり遠い位置から視認できた。通過待ちをする列車がホームに止まった頃には、後続の列車がもう近く(推定3km後方)に迫っていて、1分も経たないうちに通過するといった神業的なダイヤ構成がなされている、現在の東海道新幹線のダイヤがいかに逼迫しているかが良くわかった。現に通過待ちをする列車に接近しすぎて、明らかに駅手前でスピードが落ちる(ポイントが切り替わるまで)列車があったりもした。
 コッシーは私がホームに居ると思っていたようだ。残念、ハズレでございます。私はコッシーの入場券の時間が切れる頃にホームに入って入れ替わりでござい。

 コッシーはどっかに行ってしまった(もっとも、この日はまだ会っていないが)ので、一人で撮影を敢行。かなり暑い日だった。上りホーム東京寄りに三脚にカメラを固定してファインダーを覗き込むとすごい陽炎があがっていた。浜松駅は曲線上にホームがあるために見通しがかなり悪く(立ち場所が悪かったのか?)、上下両線ともに視認距離は400m程しかなかった。という事は目で確認してから目の前を通過するまで約7秒。さらに望遠レンズを使用していたので、列車を視認してからシャッターを切るまで5秒も無いので、あらかじめ撮影する列車を決めておいて、通過時刻を予想して撮影した。列車が来ないうちはカメラを残してホームの日影に避難して、列車が接近してきたらカメラのある日向に行くというのを繰り返した。通過時刻はデータ-が全くないので苦労したが、豊橋で取った通過時刻のデータ-からある程度予想して通過時刻を2分範囲に絞り、実際の接近はレールから発せられる音で知ることができた。そんなわけで撮り逃がしは無かった。

 昼過ぎになり、場所を移動しようとカメラと三脚を持って歩いていると脇腹のあたりから何やら音が。見るとPHSがモーツアルトの交響曲第40番の1楽章を奏でているではありませんか!!
「メズラシイ!! 電話が鳴ってる。」と思いながら電話に出ると、高校時代は常連だった模型店。用件は[マイクロエースの922系10番台改造後木箱セット入荷]とのことだった。こんなところで電話がくるとは……。

 私の撮影の法則として、移動すると正反対の場所に行くというのがある。豊橋で二日かけて撮影したときもそうだったが、上りホーム東京寄りか下りホーム博多寄りのどちらかに行き、移動するともう一方に移るのがいつものパターンである。浜松もこのパターンで今度は下りほーむ博多寄りに移動した。が、太陽の位置と曲線のカントの影響で逆光となり、いい写真が取れそうも無かったので早々と切り上げた。

 ホームを出た頃、コッシーからもうすぐ浜松に到着するとの連絡が入り、列車が到着してから改札で待っていたら、真っ先に担架で人が運ばれていった。何があったか知らないが、身体には気をつけましょう。
 しばらく待っていたが、コッシーは現れない。待ち合わせはコインロッカーだったがそちらにも居ない。しばらくコインロッカーと改札をぐるぐる周っていたらようやく発見。そのまま駅構内にあったお店で昼食をとった。

 浜松と言えば浜名湖のうなぎ、そして楽器ではないでしょうか。ではお土産にピアノを……ってどう考えても無理があるので当然お土産はうなぎであります。ど〜れ〜が〜い〜い〜か〜なぁ〜と迷いに迷って買いました。(後日、半分は自分が食べましたけど)そして列車に乗って東京へと向かうのでした。列車は211系の5000番台です。JR東海が国鉄の211系を独自のコンセプトにあわせて改良して量産を続行した車両です。インバータークーラーを搭載しているほか、スカートや運転台の後方の構造が違います。東京の211系と比べてみましょう。

 列車に乗って静岡へ。時々長いトンネルを通過するために運転室のカーテンは閉めたり開けたり忙しい。ついでに壊れていたのか斜めになって固定されていた。静岡に着くと列車を一つ見送って沼津へ。この間はほとんど寝ていた。沼津で下車してこれまた列車を一つ見送って御殿場線に乗り換え。ハトがたくさん居たので脅かしてあげた。売店でアンパンを買って食べたりして時間をつぶした。反対側のホームに身延線の313系が入ってきたりした。

 御殿場線はてっきり湘南色の113系4両だと思っていた。しかし到着した列車は115系でしかもインバータークーラー搭載。おそらく身延線の115系が313系の増備によって押し出された車両が御殿場線に移ってきたのでしょう。御殿場線の車内ではコッシーと高校時代の話で盛り上がった。延々と話をしているとあっという間に国府津。ここで降りて東海道線に乗って行く。ヤクルトを買って飲んで列車を待ったがなかなかこない。10分ほど遅れてようやくきた。しかもJR東海所属車両の4両編成の113系×2の8両編成。かなり混んでいた。この列車が戸塚に着き、私は降りて旅行は終わり。コッシーは再度東海道線に乗って松田まで戻りましたとさ。

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