文豪・夏目漱石の孫であり漫画コラムニストの夏目房之介さんがロンドンを訪れ、今から約100年前に祖父漱石が約2年間実際に暮らした街を巡りながら、偉大なる祖父への思いを綴っている。漱石の孫でありながら、
今まで漱石に関して一切語ることのなかったという著者が、今も現存する漱石が住んだアパートに足を運び、漱石も訪れたであろう場所を散策することによって、精神状態に異常をきたしながらも「文学論」
の執筆に取り組んだ祖父漱石へ思いを馳せている。
著者は、「偉大な文豪漱石の孫」として見られることに対して、長い間、反発感を持っていたという。生まれながらにして「文豪漱石」を背負わされた重圧は我々部外者でも
容易に想像できる。それでも年齢を重ねるごとにその事実と宿命を受け入れられるようになった心境変化は理解できるし、なかなか興味深いものである。また、本書第5章の「文学論とマンガ論」
では、著者の専門領域であるマンガと、漱石の分野である文学との比較がおもしろい。
私は高校1年の夏に「こころ」を読んで大いに感銘したのをきっかけに漱石に心酔してしまった。以後、岩波文庫で出版されている漱石の小説はすべて読破したほか、漱石の人物像に迫ることのできる書物をいろいろ読んだ。
だから、本書にも「人間漱石」をうかがい知ることのできる何かも期待していたのだが、著者の父である純一氏(漱石の長男)から聞いたエピソードが紹介されるにとどまり、それ以上のものはなかった。それは著者が
この世に生を受ける遥か以前に漱石は他界していたのだから無理もないことだ。人間としての漱石は、漱石夫人による
「漱石の思い出
」や、
漱石次男の伸六氏による「父・夏目漱石
」に記録されている。
私は、夏目房之介という人が漱石の孫であると知る前に、房之介氏を漫画家として認識していた。
「男と女の法則―マンガ・セクソロジー入門
」
は房之介氏の専門性と本領が発揮された一冊だと思う。著者は漱石が関わった文学とは対照的な漫画の世界に身を置くことによって文豪漱石の呪縛から解き放たれ、偉大な祖父とはまったく関係のない自己を実現したかったにちがいない。
房之介は房之介である。本著「漱石の孫」は、房之介氏の「漱石による精神的呪縛からの解放史」なのだと思う。
2006年10月12日