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いきなり野暮ですが。。。このエリアは、(お住まいの方には申し訳ありませんが)マンハッタンの他のエリアと比して、あまり、というか、相当、治安が良くないと言われています。一昔と比べれば、遥かに良くなっていますが、もしも、このページをご覧になって、実際にお散歩される場合には、十分に気をつけて下さいね。特に、High Bridge Parkとその周辺は要注意ということになっているようです
今回は、「ハーレムHarlem」の北限といわれる「シュガー・ヒル Sugar Hill」を起点として、その北である「ワシントン・ハイツ Washington Heights」の南側を散歩します。

地図中の緑の星印まで、バスM3でやってきて下車。お散歩を開始します。この下車したあたりは、シュガー・ヒル Sugar Hill = 砂糖の丘、と呼ばれ、「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれる黒人文化がハーレムで栄えた1920年、30年台には、ハーレムに居住する黒人の中で、「甘い生活」を送ることが可能な、黒人エリート層の住居でした。ハーレムを見下ろす崖沿いに走るEdgecomb Avenue沿いの西側(地図では上)の住居(1)(2)あたりは、シュガー・ヒルの中でも特に高級とされていました。

左が南 ← → 右が北
お散歩距離約7KM(除建物等内部距離)
Washignton Heights
Edgecomb Avenue沿いに北(地図では右)に歩き、155Streetを越えます。ここからを、ワシントン・ハイツ Washington Heightsと呼ぶのが一般的なようです。

ワシントン・ハイツの名に相応しく、(3)独立戦争時に、ジョージ・ワシントンの司令部となった建物を拝見します。

そのすぐ西が、(4)Jumel Terrace Historic Districtです。この家並みは、まるでアメリカ南部の家並み?のような錯覚を覚えました。

ハーレムルネッサンスの主役の一人の名前を取った(5)小学校、(6)ご近所のシンボルである消防署を拝見します。

更にSt. Nicholas Avenue沿いに北へと向かいます。168Streetと178StreetをこれからSt. Nicholas AvenueとBroadwayで時計の反対周りに一周するわけですが、この辺りは、このエリアの主役であるドミニカ系の方々の商店街となります。スペイン語の看板、会話そしてラテンのリズムの爆音?が聞こえる一角です。

178StreetでSt. Nicholas Avenueを左折(地図では上)。ジョージ・ワシントン・ブリッジ・バス・ターミナルの手前で、(7)複数のアーティストによるGraffiti(壁画)を鑑賞します。バス・ターミナルの向こう側に、(8)ジョージ・ワシントン・ブリッジが見えます。

今度は、Broadway沿いに南下(地図では左)します。途中、(9)映画館のような教会が見えてきます。その後、(10)イスラム過激黒人指導者 マルコムX が暗殺された場所を通ります。Broadway沿いに更に南下し、(11)Audubon Terranceを散策。ダウン・タウンのTrinity Churchの(13)墓地、そして(12)Church of Intercessionを見た後に、Amsterdam Avenueに出て、青の星印の所でバスM101に乗り、帰ります。





「ワシントン・ハイツ」の歴史などは、今後(と言ってもいつになるか全く不明ですが(苦笑))掲載予定の、「Washington Heights(North) 」に書くつもりです。ただ、1900年以降の地下鉄等公共交通機関の発達により開けたエリアであることを記しておきます。

今回の添書きは、ドミニカ系移民についてです。

ワシントン・ハイツの主役は、現在ではドミニカ系の方々です。ドミニカ共和国は、カリブ海の国で旧スペイン領でした。1492年コロンブスが現在のドミニカ共和国のあるエスパニョーラ島に到達し、スペイン領。その後、1795年にフランス領、1822年にはハイチによる占領を経て1844年に独立しますが、その後もハイチの侵略が続き、1861年にはスペインが再占領しますが、1865年にスペインが撤退、独立を回復しました。その後、1916-24年には米国が占領。アメリカの裏庭ということで、プエルトリコ、キューバとともに、アメリカの表裏の介入を受け続けてきました。

スペイン統治下のドミニカですが、原住民がスペイン人により全滅させられた後、居住スペイン人が黒人奴隷を連れて来たようです。その後、白人・黒人が混血となる「ムラート Mulatto」(現在ではこの「Mulatto」は、差別語と見なされる可能性がありますのでご注意を!)と言う形で、子孫を残してきます。英国植民地では白人・黒人の混血は基本的にあり得ず、こういう混血での人口形態は旧スペイン植民地に共通しているようです。従いまして、旧英国植民地(北米大陸あるいはジャマイカ)出身の黒人系移民を「アフリンカン・アメリカン African-American」とし、プエルトリコ、ドミニカなどのからの移民は「ラティーノ Latino=ラテン系=スペイン語圏出身」と区別する考え方は、一理あります。

ドミニカ系の米国移民の本格化は、1960年代以降と言う事が出来ます。本国ドミニカで1930年から始まる、ラファエル・トゥルヒージョ(Rafael Trujikko)の独裁政権下では、国を離れて移民することは非常に難しく、それは1961年に彼が暗殺されるまで続きます。彼の死後、移民の制限の緩和が行われ米国への移民が可能となってきます。ドミニカは1965年に内戦に突入、米軍が介入しますが国連および米州機構(OAS)の調停で統一暫定政権が成立します。その内戦により本国が荒廃し米国への移民が急激に増加します。ドミニカ系の正規の米国移民は、1970年代は年間14,000人、1980年代には年間22,000人となります。また残念ですが不法移民が非常に多いため、ニューヨーク市のドミニカ系住民の人口は、推定で30万人から100万人超までその幅が大きくなっています。つまり不明です(苦笑)。

ラティーノ=ラテン系=スペイン語圏出身としては、プエルトリコ系移民に次ぐ第二番手の勢力です。ドミニカ系移民の歴史での当初は、やはり言語の要因が大きいと思われますが、プエルトリコ系移民とともに生活していたようです。その後の1980年代においてNY居住の新移民は、ワシントン・ハイツに居住することを選ぶことが非常に多かったようですが、その新移民はほとんどラテン系で、その3分の2以上がドミニカ系でした。結果、1980年代からワシントン・ハイツは、ドミニカ系移民の町となったわけです。また、イースト・ビレッジのアルファベット・シティにも、少なからずお住まいのようです。陽気な生活を送りながらドミニカ系移民はカソリックで、地域のほとんどの教会はスペイン語によるミサを(英語でのミサとは別に)行っているようです。

一方その1980年代から彼らのの政治活動も活発となり、地域選出の役職にドミニカ系移民が選出され始めます。1991年の選挙区割りの見直しはドミニカ系移民に有利となり、ドミニカ系初の市議会議員を選出します。また、メレンゲ(Merengue)という音楽をNYにもたらしていきます。(fujiyanはまったくこの「メレンゲ」とか「サルサ」という音楽の分野が、どういうもんか知識不足でよくわかりません(苦笑)。今後の勉強課題にしておきます(笑))。彼らは音楽を非常に愛し、深夜爆音と共に過ごす方々が多く(笑)警察への苦情が絶えないそうです。

1990年代は、ワシントン・ハイツはハーレムより治安が悪いと言われていました。(今でもそう言う人も多いようです)。貧困。住宅そして学校などの混雑。麻薬の売買そしてそれに伴う殺人の発生率の高さ。ドミニカ系移民との警察との摩擦は大きいようでです。1992年の夏、警官がドラッグ・ディーラーを射殺した時の数日間に渡る暴動を象徴として、警官との摩擦は多く発生しました。

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今回の散歩でご紹介しているのは、実は基本的にドミニカ系移民の街とあまり関係ない場所ですねぇ。古くは独立戦争、新しいところではマルコムXの暗殺場所。(11)での「The Hispanic Society of America」は、ドミニカ系移民の博物館では無くて、あくまでもスペインあるいはイベリア半島の文化コレクションの博物館です。ここ20年でこのワシントン・ハイツの主役となったドミニカ系移民の方々の文化などが、街歩きで見うけることが出来るのはもう少し年月が必要では、と個人的には思います。

「ドミニカ系移民の街」と実感できるのは、通りを歩いているときに車・商店の中から大音量で流れるラテンのリズム、そして道端に集まって(スペイン語で)会話を楽しんでいる人々の姿でした。fujiyanの写真の力量では、チョットご紹介できませんのが残念です。


- 参考サイト -
ドミニカ共和国の研究
現在、ドミニカにお住まいの方のサイトです。
歴史、人種などについて参照させて戴きました。





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