マンハッタンを歩く:特別編
< NYを彫刻した男−「ロバート・モーゼズ」 >
−T 改 革−

(1919年:アル・スミスNY州知事との出会い)

田中角栄元首相が建築業の駆け出しだった頃、「土方は地球の彫刻家だ」と言われて大きな感銘を受けたそうです。後年、彼は新幹線、道路を日本中に張り巡らし、「日本列島の彫刻家」たらんとしたことに繋がったかもしれません。

第二次世界大戦前からおよそ50年にわたる、「NYの彫刻家」が
います。「ロバート・モーゼズ」(Robert Moses 1888−1981);

「建造の達人」(Master Builder)と当初は賞賛され、後には
「権力のブローカー」(Power Broker)と憎まれる、選挙で当選したこと無くして巨大な権力を持った人物です。

苦労人角栄氏の出生とは異なり、コネチカットに米移民し商業で成功し裕福となった、ドイツ系ユダヤ家庭の三世として彼は生まれました。その後マンハッタンの高級住宅地に転居し資産で暮らしていた家の方針としてユダヤ的教育は行われず、彼はプロテスタントの名門エール大学、そして欧州留学しオックスフォード大学ら、帰国してはNYのコロンビア大学などで学び、後年はユダヤ教の安息日である土曜日も仕事漬けでした。

当人も「自身をユダヤ人とは思わない」と言っていましたが、「ユダヤ人」の母から生まれた子供は「ユダヤ人」であるという「原則」に加え、偶然にも?「名字」が出エジプトの預言者、日本語で言う「モーゼ」ということで、極めて敬虔なユダヤ人であろうと、世間から彼は誤解?されることが多かったようです。

若い頃から「街作り」に興味があったものの学問は建築や都市開発関連では無く、公共政治学とその法制でした。「知的エリート」としての信念、潔癖さに溢れると同時に、傲慢、独裁の人であったようです。また若い頃から晩年まで、唯一の趣味であった水泳で鍛え上げられた身体で、朝から夜中まで働き詰めでもビクともせず、長寿の人でもありました。


さて南北戦争(1861−65)後から19世紀末にかけては、通称「金めっき時代」(Gilded Age)と呼ばれるように、産業発展とともに政治、財界、官僚の腐敗、そして貧富の差の拡大が進行しました。

それに対して「社会改革運動」が20世紀に入り全米で興り、モーゼズも卒業後から無償参加していました。犯罪組織対策などを行った改革派ミッチェルNY市長(任1914−17)のブレーンとして市政改革を行おうとしましたが、民主党の政治マシーン「タマニー協会」とそれに縁故採用された市の役人から、「エリート書生に何がわかる?」調の反撃にあって挫折。

アル・スミスNY州知事その後の1919年、アル・スミスNY州知事(Alfred Smith 任1919−20、23−28)に才能を発掘され、その右腕となります。スミス知事はなんと宿敵民主党「タマニー協会」有力者でしたが、州議員として低所得労働者の労働環境改善、州行政改革運動などで抜群の実績がある「改革派」。「無党派共和主義」者と自称するモーゼズを「右腕」とし、モーゼズが作成した行政改革案である、187の行政部門を19の部局に再編成し、全米中に賞賛されました。

いかに「改革派」とは言えスミスも政治家、しかも「タマニー協会」系ですから、公職、公共事業の縁故分配の希望をたまに言い出す。すると潔癖症?モーゼズはにべもなくその人材の能力面から否定、スミスは頭を掻き掻き引っ込める、という、アイルランド−カソリック系でNYスラム街出身の「叩き上げ政治家」と、裕福なユダヤ系家庭出身でプロテスタント的教育を受けた「知的エリート」は、良い意味での「凸凹コンビ」(笑)だったようで、その心の交流はスミスが亡くなるまで続きます。

ジョーンズビーチ州立公園そして単独の業務としては「NY州立公園責任者」となり(1924)、NY市東方の「ロング・アイランド」に、「ジョーンズ・ビーチ州立公園」とそこに至る自動車専用道路「パークウェイ」や橋の建設に携わり、以降、次々と大型州立公園を建設していきます。

つまり、NY州行政に関する広範囲の知識、人脈と、スミスと並んで行政改革成功者としての勲章を得る一方で、特化した職務として公園とそれにアクセスするための道路、橋の建設を成し遂げた実績は、その後のモーゼズの権力獲得に大いに役立つことになります。

大統領選(1928)へと出馬するスミスによって後継知事として指名された、後の大統領「フランクリン・D・ルーズベルト」(Franklin D. Roosevelt 知事任期:1929‐32)、そしてさらに後任の「ハーバート・リーマン」(Herbert H. Lehman 任1933−42)の、引き続く民主党州政権では、「右腕」として尊重はされなかったものの、モーゼズは「公園責任者」としての職務を続けていきました。


(1934年:ラガーディアの招聘でNY市政へ)

さてNY市政に目を向けますと「大不況」発生(1929)前に当選したのち、1年で143日を欠勤、「夜の市長 Night Mayor」「伊達者ジェームス Beau James」の異名通り、夜遊び女遊びが大好きな、「タマニー協会」系「ジミー・ウォーカー」(任1926‐32)が、ルーズベルトNY州知事による会計検査によって巨額の使途不明公金が暴かれ失脚。

改革派市民の大同団結によりNY市長となった、共和党「フィオレロ・ラガーディア」ラガーディアNY市長とモーゼズ(任1934−45)から、実績とその手腕を見込まれて、
  ・「NY市公園局長」

として招聘されたモーゼズは、その条件として、
  ・「NY州公園局長」を継続して兼務
  ・「パークウェイ」はNY市公園局管轄であること、
そして1929年に建設が開始されたもののその後滞っている
  ・「トリボロ・ブリッジ公団」(Triborough Bridge
Authority)の責任者ポスト
を要求し、認められました。

大小の「公園」は当時の社会改革の「シンボル」でした。
大規模な自然公園は、富裕層が独占していたピクニックや海水浴で楽しむ週末余暇の過ごし方を、都会の多くの一般家庭へ開放するもの。都会の小さな公園は、薄暗く狭い住居にいる貧困層特にスラム街の子供たちが、日光を浴びて健康に過ごす開放空間の提供とされました。

実は第一回当選時のラガーディアの得票率は40%で過半数に遠く及んでおらず、NY民主党が、「タマニー協会」系候補と、タマニー協会を離脱してルーズベルトの側近となったブロンクスの政治ボス「エド・フリン」が推す、いわば「ルーズベルト派」候補の二つに分裂したことが原因の、「漁夫の利」での当選でした。ちなみに民主党系二候補の得票を合わせると、54%にあたります。

従ってラガーディアは、次々と実績を誇示して自分の支持率を高くし、政治的求心力を強くする必要がありました。「ニューディール政策」で創設された国の「公共事業局」(PWA:Public Works Administration)が管轄する予算で失業者を「雇用」して行う、「社会改革のシンボル」そして「目に見える業績」である「公園」事業は、絶好の政治的パフォーマンスというわけです。
そして、モーゼズはアル・スミスつまり「タマニー協会」と親しいと反対する声を押し切り、ラガーディアはモーゼズの「やってのける力」(Get Things Done)を期待して彼を起用した次第です。
(蛇足ながら、「Public Works Administration」は、「土木部」の英語訳として日本の多数の地方政府で使われているようです。)

「目に見える業績」が必要なのは、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領」(Franklin D. Roosevelt 任1933‐45)も同じでした。政府の積極的経済介入という「ニューディール政策」を掲げた大統領にとっても、反対派の意見を封じ込めるために政策効果を誇示する必要があり、その「展示場」として「ニューヨーク」という場所は最良であっただろうと推測されます。
(2003/3/16)


−前書き− −U公 園−



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