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この「ローワー・イースト・サイド Lower East Side」は、ユダヤ系移民の街と言われています。しかし、彼らは、ここから他のエリアに居住を移しており、現在では、イースト・ブロードウェイ中心として、チャイナタウン化が進むなど、ユダヤ色は薄れています。しかしながら、彼らの生活の香りが、未だ残る街です。 起点を、星印のイースト・ハウスタンEast Houston(ヒューストン、ではなくハウスタンと発音します)と、バワリー通りThe Boweryの交差点として、時計の逆周りの周回です。
ユダヤ系ではない移民も多かった時代もあり、(2)ギリシャ正教会などもあるものの、(3)ユダヤ寺院が、やはり中核のようです。1920年には、ユダヤ寺院・学校が、このエリアに500も在ったそうです。 (4)イースト・ブロードウェイEast Broadwayに入ると、現在では「チャイナタウン」で、まったくユダヤの影がありませんが、(6)ユダヤ系新聞社跡、(7)移民向けコミュニティなどに、その跡を偲ぶことが出来ます。 イースト・ブロードウェイから、街の内側に入ると、ユダヤ関連商店を、多く見かけることが出来ます。(8)ベーグル、(9)ピクルス、(10)宗教儀式用帽子などです。また、米国移民の苦難の生活を研究できる(11)博物館もあります。 (12)オーチャード・ストリート Orchard Streetという、衣料品激安の「アメ横」を抜け、ハウスタン・ストリートHouston Street沿いで、老舗商店である、デリカテッセンの(13)カッツ Katz'sと、お惣菜屋の(14)ラス&ドーターズ Russ & Daughtersを拝見し、周回となります。 この場所を散歩するのであれば、土曜日は避けるべきだと思います。ユダヤ教の休日(シャバス Sabbath 安息日)は日曜日ではなく、土曜日のためです。 なお、(fujiyanの個人的見解ですが)上記散歩エリアの一部、特にEast Broadwayの南側(地図では左)そして、Orchard Streetの東側(地図では下)は、人通りが少ないこともあり、治安上あまり雰囲気の良いエリアとは言えませんので、ご注意下さい。 ![]() 従いまして、現在のエリア呼称で言いますと、「アルファベット・シティ Alphabet City」を含む「イースト・ビレッジ」、「チャイナタウン」、「リトル・イタリー」そして「シーポート・エリア」などが、今回取り上げた場所の他にも入ることになります。「ローワー・イースト・サイド」が、人種の坩堝(Melting Pot)と呼ばれる所以です。 アメリカが移民を最も積極的に受けて入れていた、1880年から1919年までに、ヨーロッパから、約2,300万人が移住してきたそうです。 それ以前は、「農業移民」、すなわち西へと広がるアメリカ領土での自営農民になることを目指した人々が海を渡ってきましたが、領土拡大は終了を向かえます。 そして産業の大型化が進み、都市部を中心に大きな低賃金労働者需要が発生し、移民達は都市部の貧民住居エリア、いわゆるスラム街に住むことになります。 その当時の移民たちは、イタリアなどの「南欧」、ロシア、ポーランドなどの「東欧」、という、ヨーロッパの辺境であり、近代化に遅れた地帯からやってきました。そして、「東欧」からやってきた移民たちに「ユダヤ系」の人々が多く含まれていました。 ロシア王朝時代のロシア、その支配下にあったポーランドや、ドイツなどの東欧から逃れてきた「東欧系ユダヤ人」(アシュケナージ Ashkenazi)です。彼らの移住の大きな理由は、「帝政ロシア」の迫害です。帝政ロシアは1881年以降、「ポグロム pogrom」と呼ばれる、ユダヤ人の大虐殺を行っていました。 ユダヤ系移民は、このエリアに150万人が住んでいたと言われています。ちなみに、fujiyanが持っている、お散歩ガイド本の一つは、今回のお散歩エリアの辺りを「Jewish Lower East Side」=「ユダヤ人のローワー・イースト・サイド」と呼んで、「地域」とその「時代」を限定しています。 ユダヤ系アメリカ人の80%の祖先は、一旦はこのエリアに住んでいたとのことです。 ユダヤ系の人々はご承知の通り、「宗教」民族であって「国家」がありません。アメリカ独立前は、「スペイン・ポルトガル」から、19世紀前半は「ドイツ」から、ユダヤの人々はアメリカに移民してきていました。 そして、19世紀末から20世紀初頭に渡ってきて、今回の散策エリアに入居したユダヤ系移民は「東欧系」あるいは「ロシア・ポーランド系」ユダヤ人と呼ばれており、彼らの生活は悲惨なものとして歴史に記されています。 (11)の博物館にその歴史が残る「テネメント Tenement」(直訳では借家、ですが長屋、あるいは「貧民アパート」と呼んだほうが良さそうです)は、窓も無くトイレもない狭い部屋に大人数で居住しており、その不衛生さにより多くの人が病気になり、あるいは、死亡していったそうです。また、そういう狭い住居内で、主として衣料製造などの長時間労働を低賃金で行っていました。 そしてロシア革命前後の20世紀前半には、ユダヤ人のみならず、労働組合運動が活発となり労働環境の改善を求めていきます。(6)の新聞社もそうですが、このエリアはユダヤ人の社会主義思想の中心でした。また、ユダヤ人に限らず、上記広義の「ローワー・イースト・サイド」はその昔、無政府主義などの政治的に過激主義者のエリアでした。その名残?が、「パンク」などで、現在でも見ることが出来ます。 1900年頃から、貸家の規制(窓、空気、トイレ等)も設けられ、また鉄道、地下鉄などにより開発された他エリアから住宅が供給されるなど、貸家状況は改善していき、第一次世界大戦前から、ユダヤ系住民は、このエリアから引越し?して行き、1960年代には、相当数が居なくなったようです。 (ちなみに、その後の1930年代から40年代にナチスドイツから迫害されたユダヤ系の人々は、当初はドイツから、そしてドイツの欧州制圧が進むとともに欧州全域から、亡命してきました。彼らの主たる居住エリアは、マンハッタン北部の「ワシントン・ハイツ」だったそうです。) 米国内でのユダヤ教も、厳格な順で、「正教派(Orthodox)」、「保守派(Conservative)」、そして「革新派(Reform)」など種々の教派に分かれていきました。NYで時々見受けられる、黒ずくめの衣服に高帽子を被り豊かな髭を蓄えておられる方々は、最も厳格な宗派にあたりますね。そしてユダヤ系アメリカ人も第三、第四世代となるにつれ、ユダヤ教の礼拝や食べ物の戒律などを、守らなくなってきているようです。いわゆる「アメリカ化」が進んでいる、ということでしょうか。 さらにご興味のある方は、こちらをクリック!!
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