fujiyanの添書き:プエルトリコ史とプエルトリカン


「プエルトリコ Puerto Rico」は、キューバ、ドミニカ共和国などと同様にカリブ海にあり、現在では独立国ではなくアメリカ合衆国の自由連合州/自治州(英語で Commonwealth)です。住民はアメリカ国籍・市民権を持ち、通貨もドル。州ではないのでアメリカ議会での議席は持たず(下院に発言権はあるが、投票権の無い「座席」が1つ)、またアメリカの大統領選挙には、米国本土に居住する場合は投票できますが、プエルトリコ在住者には投票権はありません。また、プエルトリコでは、アメリカの国税(連邦税)は課せられず、その税金はプエルトリコ自治州に納めることになっています。公用語は英語ですが、旧スペイン領ということもあり日常会話はスペイン語、また大多数がカソリックですが、プロテスタント系も他の旧スペイン領と比すると、かなり多いようです。また「サルサ」というラテン音楽を愛してます。

1493年に第2回航海でコロンブスは、現プエルトリコに到達しスペイン領となります。「タイノ族」と呼ばれる原住民が居たのですが、1511年に虐殺され、あるいは島から逃亡し、プエルトリコには居なくなってしまったようです。しかし、コロンブスの到達から1511年までの短い間には、スペイン人とタイノ族の間に婚姻もあり、また山奥に逃げていたタイノ族と貧しいスペイン人の間にも子孫がいただろうということから、「ヒバロ」 (jibaro)というタイノ族の血が流れているプエルトリコ人もいるようです。アフリカから黒人奴隷が連れてこられましたが、英国植民地と違いスペイン植民地では白人と黒人の間に子孫が作られていきますが、それはここプエルトリコも同様です。旧スペイン領でスペイン語を日用語とし、混血により子孫が残っていく彼らは、「ラティーノ=ラテン(系)=スパニッシュ=ヒスパニック」等と呼ばれます。もちろん、白人同士、あるいは黒人同士で婚姻し子孫を残して行く方々もいらっしゃいます。

400年に渡りスペインの統治下にあったわけですが、1898年にアメリカとスペインの間に「米西戦争」が勃発しアメリカが勝利し、戦後にプエルトリコはスペインからアメリカに割譲され、ここでプエルトリコはアメリカ領となります。この米西戦争の理由・原因の解釈は、難しいところなんですが、失礼ながらアメリカに冷ややかに?述べてみます。
アメリカが遅れ馳せながら植民地獲得、つまり「帝国主義」に目覚めた。
その当時のカリブ海の主な国々は、ジャマイカがイギリス領、タヒチがフランスから独立済み、そしてキューバとプエルトリコがスペイン領。スペインが最も国力が衰えていたので狙い撃ちをした。当時キューバのスペインからの独立運動を支援したことと、米西戦争とほぼ同時期にスペイン領フィリピンをも狙っているのが状況証拠。

米メディアが引き起こした戦争。
キューバの独立運動中に、スペインからキューバの独立運動参加者は圧力を受けますが、それを、イエロー・ペーパーと呼ばれる大衆紙は扇情的に書きたて、有ること無いことを書きまくり、それに同情した大衆をひきつけ売上を伸ばしていきます。米西戦争は、キューバに停泊していた海軍の「メイン号」が港の中で爆発により沈没したのが直接の発端。爆発の原因は単なる事故も含めて不明ながら、イエロー・ペーパーは「スペインの陰謀」と断定、スペイン討つべしと煽った結果、開戦。ちなみに、「ピューリッツァ賞」で有名なピューリッツァは、この時大衆を煽った張本人の一人。
(ちなみにセントラル・パークの南西角、コロンバス・サークルの正面に「メイン号」の鎮魂碑が、あります。)

「アメリカの正義」、「アメリカは世界の警察官」の始まり。
上記のメディアが煽ったということと共通していますが、虐げられた人々を救い民主主義の敵を討つ、というアメリカの現在の論理の始まり。それまでは、「モンロー主義」というアメリカ孤立主義だったんですが。。。
なんか1960年代、70年代の、日本の左翼運動家の「米帝粉砕!」調の書き方ですね(苦笑)。この米西戦争については、さすがに後味が悪く感じたアメリカの人々も多かったようです。例えば、上記のピューリッツァは低俗メディアの代表格みたいなもんなんですが、晩年になって反省したらしく罪滅ぼしのため?、「名門」コロンビア大学に「ピューリッツァ賞」そして「ジャーナリズム学部」を創設します。ちなみに、ピューリッツァを始め開戦派が使ったフレーズは、「Remember The Maine!」=「 リメンバー・ザ・メイン!」=「メイン号を忘れるな!」。そうです、「リメンバー・パール・ハーバー」は、この時代のフレーズの応用版だったというわけですね。
(まあ、日本でも日露戦争そして太平洋戦争前に、新聞はこぞって開戦を煽っていたわけですから非難はできませんが。。。)

さて、プエルトリコ系の方々が、アメリカへ渡る人数ですが、年代によって相当変動が激しいようです。国内の政治・経済が混乱するとアメリカ本土に移り、そうでなければ、アメリカ本土に来ない、あるいは本国に戻るようになってきたようです。アメリカ市民権を1917年に得ましたので、アメリカ本土への往来が自由な訳で、ここが他の移民達と大きく相違しています。

1493 コロンブス第二回航海で
プエルトリコ到達。スペイン領。
1511 原住民「タイノ族」虐殺。
1898 「米西戦争」プエルトリコは
スペインから米国へ割譲。
1917 ジョーンズ法により、プエル
トリコ人は米市民権を得る。
ただし知事は米政府の指名。
1948 プエルトリコ知事は公選へ。
1952 プエルトリコ憲法制定。
国旗制定、自治州へ。
米西戦争後の1900年代から20年程の間には、プエルトリコ系の人々がアメリカに渡った数が多くなります。その頃のプエルトリコは、自然災害よるタバコ、コーヒー産業などが打撃を受けると同時に国内政治が混乱したためです。また1917年のジョーンス法により、プエルトリコの知事はアメリカによる指名制ですが、プエルトリコ人はアメリカ市民権を得ます。つまりプエルトリカンは、故国とアメリカ本土との往来が自由となりましたので、その後は「移民、移住」ではなく単に「移動」ということになるわけですね。1万人がアメリカ本土に渡ります。しかし、すぐに第一次世界大戦が勃発、相当数が徴兵されてしまいます。また、大戦中の軍需産業にプエルトリコ系移民がアメリカに渡りますが、その後大不況時代(1929)を迎え、本国に戻る人々も多くプエルトリコ系移民の数は減少します。その後の第二次世界大戦でも、多くのプエルトリコ系が従軍します。

1948年にはプエルトリコ知事は公選となり、1952年には、プエルトリコ憲法が選定され、冒頭に述べた「自由連合州 Commonwealth」となり、またプエルトリコの「国旗」が制定され、現在に至ります。1950年頃、プエルトリコでは米資本を誘致し、近代化・工業化(といっても、労働集約型の中小企業が中心だったようですが)に乗り出しますが、これが成功し、10年程度で国民総生産は倍増します。しかし一方で、近代化された産業での単純労働の職が減少し、1950年代はやむなくアメリカへの流入が多くなったようです。

しかしこの頃からプエルトリコ系の人々は、出稼ぎ労働のようにアメリカ本土にやってきて、貯金がたまったりプエルトリコで職が見つかると帰国したりするようになっていき、プエルトリコ系の方々が米国に新たに定住することは、あまり盛んではないようです。従って、現在NYをはじめアメリカに定住しておられるプエルトリコ系の方々は、1900年頃から1950年代までに、アメリカに移民した人々、あるいはその2世、3世が多数ということになります。

プエルトリコ国旗の壁画現在のプエルトリコでは、現状維持派、自治州からアメリカの州への昇格を望む派と、独立国となることを望む派に分かれています。この稿を書いている2001年において、海軍がプエルトリコで大規模軍事演習を行うことに対する反対運動が起こっています。

プエルトリコの境遇を、沖縄になぞらえる考え方があります。1500年頃にプエルトリコがスペイン領となったことと、1600年代に当時の琉球を薩摩藩が実質上の領土としたこととの類似。しかも、双方とも「さとうきび」などを南国産物を主力産品とし、過酷な労働を強いられ、スペインそして薩摩藩に富を搾取されてきたこと。また、プエルトリコは米西戦争後の1898年、沖縄は米日戦争後の1945年、ともにアメリカの占領となったことも似ている、という訳です。沖縄は、その後日本に再度帰属する訳ですが、現在の沖縄もプエルトリコも、米軍の基地問題と軍事演習問題を抱えています。沖縄の方々がプエルトリコを視察したこともあるそうです。

このお散歩中にも、プエルトリコの国旗がイースト・ハーレムの中で、壁画を含めてホント沢山見うけられました。特に、プエルトリカン・パレードが終わったばかりでしたし、またアメリカ海軍がプエルトリコ周辺で軍事演習を行うことに、反対活動が盛り上がっている時期のせいでもありましょうが、その本国への愛国心は、激しいものがあるのでしょう。


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