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いきなり野暮ですが。。。一応このエリアは、(お住まいの方には申し訳ありませんが)マンハッタンの他のエリアと比して、あまり、というか相当治安が良くないと言われています。一昔と比べれば遥かに良くなっていますが、もしも、このページをご覧になって実際にお散歩される場合には十分に気をつけて下さいね。また、fujiyanは写真(8)のあたりで「project」の中を歩いてますが、これはあまり推奨できることではありません。イースト・ハーレム East Harlemのエリアの定義は、他のエリア以上に難しいのですが、南は96Street、東はイースト・リバーです。北は、145Streetあるいは125Streetとも言われています。西は、Park Avenueとするのが一般的なようですが、セントラル・パークに面する部分を除いて、5th Avenueとする場合もあるようです。ここはプエルトリコ系移民の街、と言われています。 地図中の青い星印である、96Streetから3avenue沿いまでバスで来て、北(地図では右)へとお散歩開始です。プエルトリコ系移民の街に足を踏み入れるというのに、いきなり(1)イスラム教寺院が見えてきて、拍子抜けです(苦笑)。その後(2)の消防署、警察署を通り、(3)(4)(5)壁画を拝見です。((3)に出くわしたので写真を撮っていたら、通り掛かりの人が、裏手に(4)があって「goodだよ!」と教えてくれました。感謝。)
この辺りには、「project」という大規模団地があり、その中に(8)学校兼教会があります。団地の中を通って3Avenueに出て右折(地図では右)に向かい、121Streetを左折(地図では上)に向かうと、(9)地域のランドマークとも言うべき建物があります。 レキシントン・アベニューに出て、南(地図では左)に戻って行くことにします。(10)共同庭園のような公園を経ると、116Streetに出ます。この交差点は、イーストハーレムの中心とも言えるようで、騒がしい商店街が広がります。 116Streetを西(地図では上)に向かいます。パーク・アベニューでは、メトロ・ノースの高架が走り、その下に(11)プエルト系移民の商店街があります。そのまま、パーク・アベニューの東側沿いに南(地図では左)に歩いて行き、106Streetで、(12)カソリック教会を見ます。パーク・アベニューの高架を潜ると、(13)Hip-HopアーティストによるGraffitiを拝見です。 そのまま106Streetを西に歩き、セントラル・パーク沿いに出て、(14)ラテン系(カリブ海系)文化の博物館を見学。その後、(15)セントラル・パークの庭園で一休みです。再度パークアベニューに戻って(16)メトロ・ノースのトンネルを見たら、レキシントンアベニューに出て、バスに乗って帰ります。 イースト・ハーレムは、長く農村地帯でした。1830年代に(16)Park Avenue沿いにNY初の鉄道である、ニューヨーク―ハーレム鉄道会社の高架式の鉄道もありましたが、East Harlemにはあまり人も居住しておらず、実質的に素通りでした。 (1837年の鉄道の写真が、East Harlem OnlineのEast Harlem History - Page4にあります。) 1880年以降、2そして3アベニュー沿いにマンハッタンを南北に走る高架式鉄道(Elevated Railway)がイーストハーレムに伸びて来た際に、低所得層の、ドイツ人、アイルランド人そしてユダヤ人の集合住宅が出来あがり、やや遅れてイタリア人が転居してきたようです。さらに1919年に現在の地下鉄4, 5, 6であるレキシントン線が通るようになり、更に居住者が増えて行きます。 1910年代には、西側のお隣であるハーレム Harlemと合わせて大きなユダヤ人居住区となります(1917年のユダヤ人人口は、イーストハーレムが9万人、ハーレムが8万人)。しかし、ハーレムが一戸建あるいはそれに近い住宅地であり、ある程度の所得を持つ人々の住居エリアであるのに対して、イースト・ハーレムは低所得者層のための集合住宅地でした。直接的に言えば、ハーレムは中所得層の白人の町、イースト・ハーレムは貧困層の白人の町でした。集合住宅地を主としたエリアであることは、現在までも続いています。 (1890年の写真が、East Harlem OnlineのEast Harlem History - Page3にあります。) 1920年代からは、ユダヤ人口が減少していったのは、ハーレムと同様ですが、イタリア系の人口は増大し1930年代には8万人程度となり、エリアの主役はユダヤ系からイタリア系に交代。ちなみに名物NY市長だったラガーディアは、ローワー・マンハッタン生まれですが、父はイタリア人、母はオーストリア系ユダヤ人ということで、ここのエリアに非常にマッチする血統?を持っていました。彼は、イースト・ハーレムを政治基盤とし、1923年から32年まで下院議員、そして33年から45年までNY市長、とその政治活動を続けることになります。 一方、1920年代からは、スペイン語を日常語とするプエルトリコ系の人々が転居してきて、1930年代にはNY市のプエルトリコ系住民は、ほとんど全員イースト・ハーレムに居住していたようです。1940年代から50年代には、イタリア系の人々が、郊外に転居していきます。逆に、1940年代にはプエルトリコ系の人々が入居していき、イースト・ハーレムはプエルトリコ系の街となりました。1950年のプエルトリコ系は、6万3千人となったそうです。1940年代にはプエルトリコ系の方々のための、ダンス・ホールや教会、そして(11)La Marquetaという商店街?が出来あがるなど、スペイン語でEl Barrio(英語では、Barrio=Township:「わが街」、というところでしょうか?)と呼ばれ、また別名スペイン語を日常語とする人々の街ということから、Spanish Harlemと呼ばれるエリアになります。 しかしながら、1950年代にイースト・ハーレムのプエルトリコ系住民は減少します。自分で選択してこの町を離れた人々もいるでしょうが、この頃進められた「project」という低所得者層向けの大規模住宅建設が大きな理由だそうです。低所得者層向け住宅が出来て何でプエルトリコ系住民がエリアの外に出るのか、と不思議に思うかもしれませんが、大規模団地はスラム化した家屋が並ぶ場所を取り壊して建てるため、そのスラムに居た人々は追い出されてしまう訳です。。。。また、言語の問題などを含めて、やはり所得は低いようです。 1990年代には、イースト・ハーレムの人口は11万6千人超でラテン系人口は61.1%。プエルトリコ系人口は最大多数であるもの割合は低下しているようです。アフリカン−アメリカン(いわゆる黒人系)や、イタリア系を主とした白人などその人種は多岐に渡っているようです。 −−− このエリアの感想を二つ。 一つは、壁に書かれた絵がホント多いこと。 ただの落書き、店の宣伝、本格的な壁画そしてHip-Hopのアートまで多岐に渡っています。マンハッタンではgraffitiは少なくなったそうです。また、ソーホー、チェルシーそしてイーストビレッジにgraffitiは一杯あるんですが、上手い下手は問わなくとも無秩序に後から後から「上書き」されて汚くて、鑑賞そして写真撮影する気にあまりなれないんですよね(苦笑)。 ちなみに英語では、壁に書かれた絵は「graffiti」あるいは「mural」と呼ばれますが、前者は「落書き」、後者は宗教画などの「芸術」になるようです。Hip-Hop文化の一つである壁画は、「落書き」の意味を持つ「graffiti」と呼ばれていますが、絵に芸術性が高い場合には「graffiti mural」と二つの単語を続けた表現を使う場合もあるようです。 もう一つは、予想以上に人種が多様なように思われたこと。 お恥ずかしい話ですが、fujiyanは散歩の途中で、どうしてもトイレに行きたくなり、116Streetとレキシントン・アベニューのバーガー・キングに飛び込みました(苦笑)。トイレは、お客様専用ということで、ダイエット・コークを頼んでトイレのカギを開けてもらい、間一髪セーフ(笑)。ホッとして店内を見回すと、店のマネージャーは白人で、お客さんの中には、少数派ではありますが白人が結構いらっしゃいました。町歩きでも、ラテン系では無さそうな人々も見うけられました。レストラン、教会そして博物館などの前を除くと、ワシントン・ハイツでは圧倒的にラテン系でしたし、ハーレムでは黒人の人々しか見受けられませんでした。思っていた以上に、イースト・ハーレムの人種は多様です。 ただし、イースト・ハーレム、ワシントン・ハイツそしてハーレムの三箇所とも、黄色人種は当方以外見ませんでしたが(笑)。 更にご興味のあるかたはこちらをクリック!
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