Part I
ギャングの故郷 「ファイブ・ポインツ」
Part II
アメリカ史上最大の暴動 「徴兵暴動」


Part III :「その後のギャング」 「映画宣伝から」


<その後の「ギャング」たち−「アイルランド系」から「イタリア系」「ユダヤ系」へと交代>

南北戦争(1861-65)後、最も栄えた歓楽街(特に「カジノ」)「テンダーロイン」、別名「Satan's Circus悪魔のサーカス」と呼ばれた、現在の「ガーメント・ディストリクト」そして「ヘラルド・スクエア」界隈でした。また、マンハッタンを南北に結ぶ「高架式鉄道」も建設が進み往来が楽になり、歓楽街そしてギャングたちもマンハッタン内部で散らばっていきます。

「ファイブ・ポインツ」あるいは「バワリー」地区の「アイルランド系」移民らを含む人々は、南北戦争後からの公的・私的な、住居そして教育問題向上の援助が行われ「民度」は向上し、それなりに裕福になった人々は転出し、新たなる人生へと旅立ちました。

しかし「ヘルズ・キッチン」などのマンハッタン西側工業地帯の低所得者層では、「南北戦争孤児」らが集まり、ギャング団が形成され、最強だったのがアイルランド系「ゴファーズ」。「ゴファーズ」の「稼ぎ」は、「ヘルズ・キッチン」を走っていた「ハドソン・リバー鉄道」(NYセントラル鉄道)の駅や積み荷を襲うことでした。数十年の後、「ハドソン・リバー鉄道」は公的警察の保護をとうとうあきらめ、「私設警備団」を編成し徹底的に「ゴファーズ」と戦い、ほぼ壊滅状態に追い込みます。

一方、「ファイブ・ポインツ」そして「バワリー」地区ですが、「アイルランド系」「ドイツ系」が主軸だった移民は、1880年頃から南欧特に「イタリア系」とユダヤ系を含む「東欧系」の「新移民」世代となり、ギャングたちの民族構造も変化しました。
 ・「ファイブ・ポインツ」には、イタリア系「ポール・ケリー」(Paul Kelly 1876-1936)率いる
「ファイブ・ポインツ・ギャング」
 ・「バワリー」には、ユダヤ系「モンク・イーストマン」(Monk Eastman 1873-1920)率いる
「イーストマンズ」
この頃 から、「ファイブ・ポインツ」地区は「リトル・イタリー」、「バワリー」地区は「(ユダヤ・)ローワー・イースト・サイド」、とそれぞれ呼んだ方が良さそうです。
また両エリアの狭間の小さな一角に、散歩本文でも書きましたように、中国系の人々が集まり、1880年代に小さな「チャイナタウン」が成立。その中でアヘン窟と賭博を生業とするギャング(「堂 Tong」)が現れ、彼らの間で抗争が始まりました。
モンク・イーストマン初期NYのギャングたちと同様に、この二つのギャング団は抗争を続けました。「タマニー協会」は、どちらもその傘下であり、世間の目もうるさくなっているため、その抗争を止めさせようと何度となく仲裁に入っており、また目立つ犯罪はしないように、とも命じました。

「モンク・イーストマン」はその後も逮捕されては「タマニー協会」の圧力で釈放してもらうことを続け、お隣ニュージャージー州でも逮捕され、越境ながら「タマニー協会」に助けてもらうことも。しかし1904年逮捕されたある日、「タマニー協会」は何もしてくれませんでした。「見捨てられた」わけですね。

一方の「ポール・ケリー」は、同年にゴッファーズの元メンバーに銃で襲撃され重傷を負った後に、実質的に影響力をなくしました。「二大ボス」の影響が無くなり、「跡目争い」が横行しますが、後継者たちは、やや「小粒」になっていきます。

1914年のNY市長選で、油断をしていたのか「タマニー協会」系民主党候補が地滑り的落選、当選した改革派ミッチェル市長はギャング撲滅に乗り出します。タマニー協会は大敗北で組織が混乱したのか(あるいはギャングとの縁を切るいい機会だと思ったのか)、傘下のギャングを救うことができません。4年後にタマニー協会はNY市政を取り返しますが、その間で相当な「浄化」が進み、300名程の幹部も含むギャングが入牢し、大物は姿を消したそうです。 そしてこの頃から、世間ではギャングと政治の関係をもはや認めなくなってきたとも言えそうです。

ちなみに「二大ボス」のその後ですが、「モンク・イーストマン」は入出獄を繰り返し、志願兵として第一次世界大戦の最前線で戦ったことを認められ市民権を回復しましたが、禁酒法時代の1920年、密造酒と麻薬商売に手を染め、その関連で不正の香り漂う禁酒法捜査員に射殺されました。一方の「ポール・ケリー」は何回か再起を試みたもののパッとせず、不動産屋と労働組合のオーガナイザーとして過ごし、1936年「畳の上」で亡くなりました。



<「ギャング」から「モブMob」(チンピラ)へ>

この頃から、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の世界に入ります。

「ゴファーズ」、「ファイブ・ポインツ・ギャング」、「イーストマンズ」など絶対的な力を見せ付けてきた「大手」?ギャング団が瓦解し、ギャングたちの多くは「裁縫産業」を中心とした労働争議に関わり、組合側あるいは経営側に付いて脅迫、暴力を提供することに収入源を求めていき、1920年から33年までの「禁酒法」時代に密造酒で儲けていきます。ギャングはさらに「小粒」となっていきます。

ハーバード・アズベリー「The Gangs of New York」序文の日付は、1928年。
彼は「ニューヨークにはもはやギャングはいない」と言っています。「ギャング」と称しているグループは「ギャングGang」ではなく、「モブMob」(チンピラ)である」、「ギャング」は政治家とつるみ千人もの動員力を持っていたものだか、「モブ」は「せいぜい6,8名」程度の動員力で、リーダーへの忠誠心も無い。警察の手入れで胡散霧消する。

彼が執筆した後もNYでは、「モブ」=チンピラの争いが続きます。
そしてイタリア系移民の中からは、母国特にシシリー島土着のギャングの哲学・システムが「直輸入」された、いわゆる「コーザ・ノストラ」が現れ、NYギャング「文化」とは異なる「マフィア」の原型を成します。

「モブ」の小競り合いは続き、それがある程度の決着を見るのは、新世代の登場を待たなければなりませんでした。若い「モブ」の中から現れた「新世代」である、イタリア系「”ラッキー”・ルチアーノ」やユダヤ系「メイヤー・ランスキー」らが「旧世代」を粛清し、NYの地下社会に、ある程度の秩序を1930年代にもたらします。ご興味のある方は(そしてこの長ーい文章にお疲れでない方は(苦笑))、fujiyanの添書き:「ボス達のボス」-NYマフィア史をご覧下さい。


その後の「ファイブ・ポインツ」2003/2/1) その後の「ファイブ・ポインツ」について。

19世紀末から、貧困層に関する社会改革運動が活発となりました。その運動者の一人「ジェイコブ・リース」(Jacob Riis)は、ドキュメンタリー「How the Oher Half Lives?」を1890年に著わし、その中でマルベリー・ストリート沿いは最悪の「犯罪の温床」と指摘しました。喚起された世論の後押しがあり、1894年にスラム群は撤去され、現在の「コロンバス公園」(当時「マルベリー公園」)となりました。また、「ワース・ストリート」を挟んで反対側は、現在では裁判所とアパートとなり、「ファイブポインツ」の中心は消滅したことになります。



<映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」の宣伝サイトを見て、よもやま話。。。>

原作「The Gangs of New York」は小説ではなく「ノンフィクション」です。公開される映画が、どのように「ドラマ仕立て」であるか興味を引きます。そして1863年つまり「徴兵暴動」までの年がどうも扱われるようですが、「徴兵暴動」は描かれるんでしょうか?

さて映画には実在の人物と、架空の人物が居るようですね。

映画に配役のある「”ボス”・ツィード」は、文中でご紹介の通り。さらに詳しくは別ページをご覧下さい。
しかし1830年頃にタマニー協会幹部として顕著にギャング団を利用した「政治家」は、文中でご紹介の通り「”キャプテン”・ラインダース」という人物で、「タマニー協会」を離れ、一時的に「ネイティブ・アメリカンズ」党に合流したのもご案内の通りです。

ラインダースの「お抱えギャング」の一人が、「ビル・”ザ・ブッチャー”」(Bill "the Butcher")。異名の通り、「肉屋」仕込みの刃物さばきで恐れられていたそうです。彼は実在の人物で、タマニー協会の末端役をしていたこともありましたが、「ラインダース」と共に「ネイティブ・アメリカン」党に合流したものと思います。その「名前」は、原作にも映画にも登場します。

しかし映画に登場する「ビル・”ザ・ブッチャー”」は架空の人物のようです。というのは、実在の「ビル」の本名は「ウィリアム・プール」(William Poole)であり、映画での「本名」は「ウィリアム・カッティング」(William Cutting)とされています。また実在の 「ビル」は1855年没。映画では、ディカプリオ演じるアイルランド系青年「アムステルダム」が、「タマニー協会」系ギャング「デッド・ラビッツ」のボスであった父を殺害した「ビル」への復讐のため、NYに戻るのを1863年としているようですが、その年には既に死亡していたはずです。
映画では、「ビル・”ザ・ブッチャー”」という実在の人物に、当時の反「移民」、反「アイルランド系」、反「カソリック」である「ギャング」の要素を集約させて、新たに架空の「キャラクター」を作り上げたんでしょう。

映画では英国人俳優がキャスティングされていますが、実在の「ビル」を「イギリス系」と断定するのは早計だと思いますね。というのは、「アメリカ生まれ」で「プロテスタント」であれば、アイルランド系でも「ネイティブ・アメリカンズ」党に加わる可能性は十分ありますから。

ちなみに実在の「ビル・”ザ・ブッチャー”」が残した今際の言葉と、その後のエピソードは有名だそうです。彼は死後に芝居の主人公となり、この今際の言葉を役者が叫ぶと、拍手喝采だったとか。ここでは映画鑑賞の邪魔をせず、記さないことにしました。

「ビル」が率いたギャング団を、映画では「ネイティブ・アメリカンズ」としていますが、これはいわば「政党」名です。同党の「お抱え」ギャングで最大のものは「バワリー・ボーイズ」でして、「ビル」は若い時期に所属したこともあるそうです。彼はその後独立して自前のギャング団を率いていたようですが、その名称は不明ですが、当時は政党とギャング団が一体と言ってもよく、もしかすると同じ名前を名乗っていたかもしれませんね。

ちなみに宣伝サイトの「予告編」を見ますと、「ビル・”ザ・ブッチャー”」らのギャング団は、「バワリー・ボーイズ」がモデルのようです。「ビル」がディカプリオの父を殺害した頃はシルクハットをかぶっているだけでしたが、その後ディカプリオがNYへ舞い戻った時には、高いシルクハットを身につけ、ハンカチーフを首に巻き、長いコートを着て「お洒落」?になっています。これは原作に書かれている「バワリー・ボーイズ」の描写そのものでして、彼らは時代を経てお洒落になっていったそうです。「バワリー・ボーイズ」はあごひげを蓄え、背の高いシルクハットに巻き毛の長髪を左右に流すというファッションだったそうですが、これは米国連邦政府をあらわす「アンクル・サム」と同じであり、「ネイティブ・アメリカン」の「愛国」スタイルだったようです。


日本版の宣伝サイトでのキャッチコピーは、
 −「この復讐が終われば、愛だけに生きると誓う。」(レオナルド・ディカプリオの写真付き)
 −「一人で生きようと思っていた。あなたに会うまでは。」(キャメロン・ディアスの写真付き)
 −「この街で生きるなら、祈りは俺に捧げろ。」(ダニエル・デイ=ルイスの写真付き)

アメリカ版の宣伝サイトでのそれは、
 −「AMERICA WAS BORN IN THE STREETS」(「アメリカはストリートから生まれた」)

前者は「恋愛ドラマ」を、後者はアメリカ史の一部としての「ドキュメンタリー」性を、それぞれ主張しているような気がします。日本での宣伝関係者の方々は、この映画からアメリカ人が受け取るであろうメッセージを、日本人には受け止めることが出来ないと、あきらめておられるようですね。ウーン、その通りかもしれませんねぇ。fujiyanも、所詮はアメリカ人じゃないから、けっきょくは無理なのかもしれません。でも、この稿を読んでいただいたゲストの方にとって、映画鑑賞の事前事後に、この拙くて長ーいこの添書きが少しでも「鑑賞ガイド」になったならば、ホントに嬉しく思う次第です。




Part I
ギャングの故郷
「ファイブ・ポインツ」
Part II
アメリカ史上最大の暴動
「徴兵暴動」
Part III
「その後のギャング」
「映画宣伝から」








2003/2/1 ファイブポインツのその後を掲載。テキストを若干修正。


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