予科練記念館雄翔館

大戦の主戦力、若鷲ようらんの地

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参照(山本五十六A)   参照(予科練A)

 

 「若き血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 ……」で始まる西条八十作詞、古関裕而作曲の「若鷲(わかわし)の歌」は戦前生れの人ならば何度も聞いた戦時中のヒット曲だ。この歌は海軍飛行兵を養成する予科練で訓練を受ける青少年の気概を勇ましく歌った宣伝歌だった。

 一般に日本の軍歌や戦時歌謡は哀調を帯びて重苦しいといわれる。それは明治以来の日本の戦争が大陸での歩兵戦を主としたのと関係がありそうだ。だが海洋航空戦が中心の太平洋戦争となれば、そのスピード感と撃つか撃たれるかの瞬時決着型の戦いの態様から、当然歌も変わってくる。

 例えば落下傘部隊の活躍を扱った「空の神兵」は珍しく軽快な曲だし、海軍での休日なしの猛訓練を歌った「月月火水木金金」もテンポが速い。そして景気のよい「若鷲の歌」が発表されたのは1943年(昭和18年)だった。

しかし総力戦を支える国力が圧倒的に劣っていた日本は、すでに連合国側の物量を誇る反攻によってじりじりと押されていた。長期化する戦争は女子挺身隊の発足とか動物園猛獣の薬殺、あるいは学徒動員や生活物資の窮乏などと、緒戦の戦勝気分はすでに失せて暗くなるばかり。

国民の戦意高揚を狙って、ラジオはこの曲を繰り返し流していた。歌の主題となった予科練は、海軍飛行予科訓練生の略称である。海軍航空戦力を拡充強化には、優秀な搭乗員の養成が不可欠との観点から、予科練の制度は1930年に制定された。

 発足当初、訓練は横須賀海軍飛行隊内で実施されていたが、1939年(昭和14年)に霞ヶ浦航空隊へ、さらに翌1943年には新設の土浦海軍航空隊へ移管され、ここ霞ヶ浦湖畔は終戦まで海軍航空兵養成の中核となった。ここでは年4000人規模の訓練が行われていたという。

 だが前年に行われたミッドウェー海戦や、ガダルカナル、サンゴ海域での数次にわたる海戦は、日米双方の航空戦力を著しく消耗させた。歌の発表された1943年には彼我双方が海軍航空戦力の再建に国力を傾注していた時期だった。

 日本側は土浦の他に新しく全国19箇所の練習航空隊を創設し、多数の搭乗員を急速に養成しようとしたが、時はすでに遅かった。空母の建造や新しい戦力創出競争となれば、国力差がその成果に歴然と現れた。

 全国から志願者をかき集めても、練習機や燃料が不足すれば訓練もままならない。結局速成された練度不十分の若い航空兵たちは、質量共に劣勢になった味方の一員として消耗戦に投入され立ち向かう羽目に陥った。

 緒戦には大きな戦果を上げた海軍航空隊だが、強固な防御態勢を整えた米機動部隊を相手にして消耗は続き、やがて敵艦へ有効な雷撃を行って離脱するだけの戦力も技量もなくなった。残る手段は最初から生還を期さない攻撃法(特攻)しかなくなった。

 それは重い爆弾を着装したために更に鈍重となった旧型機が、多数の敵新鋭艦載機の待ち構える空域を味方の援護なしに直進して敵艦へ向かうという、目標到達でさえ至難な攻撃法だった。それでも戦闘機の搭乗者を目指した彼らにとって、旧型航空機とはいえ航空攻撃ならまだましだった。

 大戦末期になると航空機の不足から、人間魚雷回天や爆装モーターボート震洋などと、始めから特攻用に造られた航空機以外の兵器の要員へ、すなわち海の特攻要員へ転属させられた人達も少なくなかった。このような情況から予科練出身者の損害は多く、卒業年次によっては八割以上の戦没者を出した。

 土浦航空隊の跡地は今では陸上自衛隊武器学校になっている。その敷地の一角に、予科練出身戦没者を祈念しその霊璽簿(神霊の御神代となる名簿)を奉安する記念庭園雄翔園と、戦死者一人ひとりを遺品や関係資料によって紹介する「予科練記念館雄翔館」がある。

 館内に展示された遺影や遺品を見ると、その主は殆ど20才前後の若者だ。17才や18才の人も辞世の歌や遺書を残して手を振って出撃して行った。一人の人間として多くの思いや悩みを振り切って飛び立った若い彼らの働きは、例え結果がどうあれ、称えられるべきものだ。

 その活躍は特攻機の防御に奔走させられた米海軍からはバカ爆弾と酷評されたが、その米国でさえ愛機が被弾したため、基地帰到を断念して日本軍艦へ突入した米軍人に対しては高い栄誉を与えている。

 現代に頻発する自爆テロ。特攻隊とはその背景や態様がかなり違うが、一方から見れば危険なテロリストでも、他方から見れば尊い殉教者であり勇敢な戦士と言われる。決死の攻撃に散った若者の純粋な気持ちは皆同じであろう。

 展示品の中には戦没者に下賜された額面40円の国債証書がある。当時なら若い社員の月給に相当する金額だったが、遺族は物資欠乏のため何も買えず、戦後のインフレはそれを紙くず同様にしてしまった。それを見るにつけ、結局国がその価値さえも収奪してしまったと感じて苦々しい限りだ。

 特攻隊員の犠牲が意義深いものになるか否かの分かれ目は、最終的な勝敗とその戦争が後世の歴史でどのように評価されるかによって大きく左右される。ひいては開戦を決断し、戦争を指導した最高指導層の読みの深さや判断の適否、それに基づく政策決定と遂行の巧拙も問われるだろう。

日独伊三国同盟や日ソ中立条約の締結を推進し大東亜共栄圏を提唱したのは、松岡洋右外相(ようすけ 18801946)だった。彼は開戦直前の日本外交の立役者として、アングロサクソン支配の脱却による東亜新秩序の確立や世界人類の救済を唱えた。その一方で彼は満蒙進出の必要性を積極的に主張した。

その理想には幾分尤もな面もあった。しかし、彼の著書「興亜の大業」(1941年刊)に書かれているように、当時の日本は未曾有の国難に直面していた。すなわち当時の日本は、自らの行動の結果、連合国側からは徹底した戦略物資の経済封鎖を受けながら中国戦線での消耗戦を止められないという、進退窮まる重大な局面に追い込まれていた。

 思うに戦前の日本は世界の反対を押し切って国際連盟を脱退するなど、唯我独尊が過ぎた。欧米列強支配の植民地解放戦の旗印はともかく、それが世界的に孤立した資源の乏しい国力で実現可能であるかの冷徹な分析判断が国全体の意識に、特に思い上がった陸軍幹部には欠けていた。

 また強い言論統制下とはいえ、政府に無理な景気対策を望み、大陸進出を歓迎した国民にもその責の一端はあるだろう。しかし現代の我々にそれを笑う資格はないと思う。それは現代日本の国家財政は終戦時と同程度の極度に悪化した破綻状態にあるからだ。

 それなのに多くの企業は政府のさらなる支出を期待してぶら下がり、金の投入を求めて口を開けている。族議員は予算獲得に狂奔し利権探しに血眼だ。これでは浸水して沈みつつある小船の中で、船員たちが排水もせず博打に熱中して掛け金の争奪をしているようなものだ。

 それはともかく、前大戦が、そして戦没者たちが自己の命と損得を捨てて後世の我々に示した最大の教訓は、日本は平和でなければ成り立たない国ということだ。例え若者が渾身の熱情を投げ打ったとしても…。彼らのこの無言の教えを後世に生きる者は心に刻む必要がある。

すなわち日本は食料もエネルギー源も工業原材料も、そのほとんどを海外に依存している。またその購入資金は製品輸出で稼ぐしかない海洋貿易国だ。そのためシーレーン防衛は必須だが、大金をかけてもその実効性が夢に近いことは時下の事実が示している。

 さらに日本は狭い国土の二割程度の土地に人口と産業が集中している。このような国は空からの攻撃に極めて弱い。また敦賀湾岸に分布する原発の一基でも破壊されれば、偏西風や北風に乗った強い放射能は関西・中部地方から関東地方まで及んで日本の中枢部を人の住めない土地にしてしまう可能性もある。

 第一、一人っ子社会は長期消耗戦には耐えられない。そうならば日本は優れた文化と人類普遍の思想を掲げ、高い技術・文化水準と先端的研究力を備えて、世界に貢献している国として世界から認められる中規模平和国家を目指すしかない。

 終戦後すでに数十年以上経って、今や戦後生れの人々が社会を動かす時代になった。そこに多種多様な考え方が存在するのは結構だが、中には戦争時代をよく知らぬまま勇ましい意見を吐く人やそれに共鳴する者も決して少なくない。

 このような世情の変化を踏まえて、再び悲惨な戦いの道へ歩まぬよう平和志向を強めねばならない。だがその方向はともすれば隠忍自重を要し、威勢が悪いと誤解されて人々の共感を得がたい場合もしばしば起りうる。それでも国民全体がそれに耐えて平和を維持して行かなければならないと思う。

 当館に展示してある戦没者の無言の啓示はその観点からも貴重なものだ。ただ来館者の世代が次第に変わってくるから、その人たちに理解されるよう説明パネルを時代と共に少しずつ手を入れてゆく必要はありそうだ。

xkasumi なお当館入り口には海軍航空隊の育成に努めた山本五十六元帥像が、前面に保管してあるプロペラ式練習機を眺めるように立っている(写真参照)。ただしこの航空機は米国製T型練習機だ。もはや旧軍機はないのだからやむをえないが、少し奇妙な感じがしないでもない。

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(作成日: 04/09/08、 更新日: 14/08/03)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

予科練記念館「雄翔館」_茨城県稲敷郡阿見町青宿121-1 陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内_TEL 海原会事務局 03-3768-3351武器学校 0298-87-1171 内線 233(広報援護班)_

JR常磐線土浦駅から約5.3km(25deg.E 3.7km)、駅西口バスターミナル乗り場からJRバス江戸崎行き・美浦センター行きなどで約16分「阿見」下車、あるいは駅西口バスターミナル乗り場から関東鉄道パス阿見中央公民館行きに乗り「阿見坂下」下車。「阿見坂下」と「阿見」両バス停は同じ場所にあり、下車後にそこから進行方向すぐにある阿見坂下交差点を左折し小道に入るとすぐに雄翔園がある。雄翔園の北側に雄翔館があり、また雄翔園の南東側に予科練平和記念館のモダンな建物が見える。_

 

駐車場 隣接する予科練平和記念館の駐車場を利用、約50台_小_大人_

9:30-16:30(16:00)_月曜日(祝日に当れば開館し、翌日休館)12/291/3_{16/09/15}