三鷹市山本有三記念館、山本有三ふるさと記念館、小金井市文化財センター

「路傍の石」の生まれた書斎

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 劇作家で小説家の山本有三(18871974)は栃木市の出身で、生命の尊厳や人間の生き方について易しい文体で書かれた多くの作品を残した。小説「真実一路」や「路傍の石」及び戯曲「米百俵」などは良く知られている。彼は戦後、国語研究所設立にも関与し、国会議員として文化政策面で活躍し文化勲章も受賞している。

 東京西郊・三鷹市には彼が9年間住んだ旧宅が残っている(写真参照)。ここで「路傍の石」や「米・百俵」などの作品が執筆された。彼は55才の誕生日を迎えた昭和17年には邸内に「ミタカ少国民文庫」を開設して、子供たちに読書指導も始めた。

 この建物は戦後、連合国に接収され、彼は昭和28年に湯河原へ転居した。その後、土地・建物は都に寄贈され、現在は三鷹市に移管された。今ではその敷地は有三記念公園となり、旧宅は「三鷹市山本有三記念館」になっている。建物は延べ450平米の屋根裏付き二階建ての瀟洒(しょうしゃ)な洋館だが、内部はやや狭く感じる造りだ。

 館内には彼が使用した品々と遺稿や書籍などが展示されている。彼は階段のある家を好み、彼の小説には二階の情景が良く出てくるという。当館でも二階が執筆の場だった。ただ彼は戦後、議員や大臣として政治活動をしたためか、戦後は見るべき作品を残さなかった。

 都市化の進んだ今日でもこの辺りは閑静な雰囲気が残り、近くには井の頭公園もある。また敷地の前を玉川上水が流れているが、かつてこの少し上流で大宰治と愛人が入水した。その辺りには太宰の故郷金木産の玉鹿石が据えてある。

 なお栃木県栃木市には「山本有三ふるさと記念館」がある。当館は彼の生家跡に隣接した黒い店蔵を利用しており、彼の生涯と業績を紹介し、遺稿や遺品を展示している。すぐ近くの近龍寺には彼の墓もある。

一部に荒廃した世相が見受けられる昨今、人の生き方を扱った彼の作品は再評価されつつあるそうだ。特に米百俵の話しは小泉政権の時代によく話題に上った。ところで昭和初期の教養小説の名作として、「路傍の石」と並び称されたのは「次郎物語」だった。

次郎物語は教育者であり、作家でもあった下村湖人(本名 虎六郎 1884-1955)の作だ。その執筆は1936年から始められ、戦中戦後の約18年間を費やして五部作までが刊行された。

 その第一部を執筆し、続編の構想を練り、また後編の舞台とされた場所が東京都小金井市の浴恩館公園に保存されている浴恩館と空林荘だった。この公園は三鷹市の山本有三記念館から玉川上水を約5km遡った辺りの、都立小金井公園の近くにある。

yokuon1 yokuon2浴恩館は旧大日本連合青年団の養成所として使われた昭和初期の大きな木造建築物だ(写真左参照)。この建物では疲弊した農村の復興に当たる人材育成のため、1931年から全国の主に農村青年を集めて研修会が実施された。空林荘(写真右参照)はその講師用の簡素な宿泊施設だった。

下村湖人は33年から36年まで、大日本連合青年団を主宰した田澤義鋪(よしはる18851944)に招かれて、その養成所所長として青年たちの教育指導に携わった。田澤と湖人は友愛を深化させた青年団の自主自由な努力による創造と発展を目指して活動を推進した。

湖人はその業務の合間に次郎物語の第一部を執筆し、その続編の構想を練った。第一部は好評だったが、同時に強い批判もあった。時代は戦争へ向っており、世情も軍国主義や全体主義的傾向が力を増し、彼らの自主自由を重んじた方針は批判の的になった。

次郎物語もその自由主義的な内容が軍部から非教育的と批判された。そのため雑誌「青年」への連載は中止になり、程なく湖人も所長職を辞して、講演と文筆の生活に入った。それでも次郎物語の執筆は戦時中・戦後も続けられ第五部まで刊行されたが、第六部や第七部の執筆は彼の死によって未完に終わった。

それに先立ち、田澤も理事長を辞任した。その後、田澤は勅撰貴族院議員としての活動と壮年団運動などに携わっていたが、請われて翼賛会指導員になり、全国を回って講演をしていた。ところが19443月香川県善通寺の会合で彼は驚くべき話をした。

彼はその講演中に脳出血の発作で意識不明になった。すなわち彼が「…日本の敗戦は避けられない事態である。この苦しい関門を乗り越えなければ平和が訪れない。…敗戦後の日本をどう再建するか、今こその覚悟を……」と語った時に不幸?にも倒れたという。

戦局が深刻化していた時期に、この発言が招く非常な危険性は、当時の小学生高学年でさえも分ることだった。その講演内容は時局を達観した彼の大きな思いによって行なわれ、意を決しての発言だったのだろう。

彼は全体と個を上下の関係に置かず、両者を有機的な結合と考えた。構成員同士の友愛の深化と自主自由な切磋琢磨による創造が全体の向上につながり、国はその成果を体現する大いなる道を追求する存在であれと主張した人だった。そのため彼は全体主義を嫌った。

現在、浴恩館は「小金井市文化財センター」となり、郷土の考古・民俗資料、浴恩館と田澤や湖人関係、小金井のサクラと玉川上水などの関係資料を展示している。

ここで話を替えて、小金井のサクラについて補足すると、サクラは八代将軍吉宗の命を受けて植えられた。すなわち、玉川上水の小金井橋の上下各3kmの両岸に、吉野や常陸桜川産の山桜が植えられた。植栽事業は1737年ごろから約10年間続けられたという。

それを実際に推進したのは府中押立村名主・川崎平右衛門定幸(1694-1767)だった。彼はその手腕を大岡越前守忠相に見出され、多摩地方の新田開発に当たった。やがて将軍吉宗は彼を幕臣に取り立て、美濃や石見銀山の代官などに任命している。そこでも彼は婿と共に新田開発や治水工事に優れた業績を残した。

後に彼は江戸に戻り勘定吟味役や諸国銀山奉行に任じられ、73歳で亡くなるまで業務に携った。その手腕と業績は今でも全国各地に残る彼の供養塔や謝恩塔、彼を祭った神社などからも推し量られる。彼の手掛けた小金井のサクラは、寛政年間には上野・向島・飛鳥山と共に江戸の人々に知られた。

その当時は江戸から片道20km余を歩いての観桜だった。鉄道が開通してからも、当初は武蔵境駅で降りて、玉川上水沿いに観桜して国分寺駅から帰ったという。その間の歩行距離約8.5km、昔の人は健脚だった。近年、生育環境の悪化からサクラは衰退気味のため、回復策が色々講じられている。

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(作成日: 00/05/05、 更新日: 11/09/10)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

三鷹市山本有三記念館_東京都三鷹市下連雀 2-12-27_TEL 0422-42-6233_

a)JR中央線三鷹駅南口から0.8km(65deg.E 0.7km)玉川上水沿いの「風の散歩道」を徒歩12分、

b)JR三鷹駅南口の三鷹シティバス乗り場から三鷹の森ジプリ美術館循環ルート・明星学園ルートで「むらさき橋」下車徒歩2分、

c)JR中央線吉祥寺駅南口からは1.5km徒歩20

d)JP中央線吉祥寺駅南口近くから小田急バスを利用し「万助橋」下車徒歩6分_

駐車場 台数は少ないので、なるべく公共交通機関の利用を_小_大人_

9:30-17:00_

月曜日(月曜日が休日に当たる場合は開館し、休日を除く翌日翌々日が休み)、年末年始(12/291/4)_{17/01/31}

 

 

山本有三ふるさと記念館_栃木県栃木市万町 5-3_TEL 0282-22-8805_

JR両毛線・東武日光線栃木駅から1.1km (15deg.E 1.0km)徒歩18分、タクシーあり_

近隣の蔵の街第1駐車場利用_小_大人_

9:00-17:00(16:30)_

1,2,3,7,8,12月の月曜日(祝日に当たれば開館し、翌日休館)

年末年始_{17/01/13}

 

 

金井市文化財センター_東京都小金井市緑町3-2-37 浴恩館公園内_TEL 042-383-1198042-387-9879(市役所生涯学習課文化財係)_

a)JR中央線武蔵小金井駅北口から1.8km(N48degs.E 1.4km)、徒歩では場所が少し分かりにくいが約25分、タクシーあり

b)JR中央線武蔵小金井駅北口から地域循環の「ココバス」北東部循環を利用し、13番「小金井公園入口」下車後南方向へ徒歩5分_小_大人_

9:00-16:30_

月曜日(祝日に当たれば開館し、翌日休館)、年末年始(12/291/3)_{17/02/11}_

なお都立小金井公園はここから北へ歩き、玉川上水と五日市街道を歩道橋で渡り約0.5km