輪中の郷

環状の堤防で集落を洪水から守る

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参照(水郷A)  参照(デ・レーケA)

 名古屋駅から関西本線に乗って桑名方面へ約25分、列車は満々と水の流れる大きな川を次々に渡る。それは木曾三川といわれる木曾川(写真参照)・長良川・揖斐(いび)川の最下流の姿だ。ここは桑名市長島町という所で、三川に挟まれた細長く低湿な川中島である。

wajyu1 太古から木曾三川は上流の中部山岳地帯から多量の土砂を伴って流下し伊勢湾に注いでいた。一般に下流域では流速が遅くなるから運ばれてきた土砂は沈殿し川床が上昇する。水はより低所を求めて流れるから、増水期には自然のままなら流路が度々変わる。

乱流を繰り返す内に土砂が偏って溜まり中州が生れる。また河口付近の沖積地は通常地盤がやや沈降性なので、土砂はどんどん堆積し、やがて三角州ができる。濃美平野もこの過程を経て形成された。ちなみに長島一帯の古図、例えば室町時代の古絵図・織田信長公長島攻図・江戸後期の古図などと、現代の地形図を比べれば、陸化の進行は歴然としている。

 戦国時代までの長島一帯は湾の中に小さな島が散在する状態だったが、江戸後期には島や中洲が広がり、三角州状になった所を三川とその分流が網の目状に乱流している。旧東海道の海上七里の渡しを通る旅人は、江戸前期には湾内の島々を眺めながら航行したのだろうが、幕末には川筋を縫って航行するような印象を受けながら、現在の長島町内を横切っていたのだろう。

 大河は流域に利益をもたらす反面、水害の危険性も大きい。しかも長島付近にはご丁寧にそれが三つも集中している。三川は各々別の流域を持ち、水量も流出条件も違うのに、それらの流路が網の目のように繋がっているのでは危険極まりない。

例えば三川の河床は木曾川が一番高く次いで長良川・揖斐川の順である。また水量は木曾川が最大だから、木曽川がひとたび氾濫すれば、より水位の低い長良川・揖斐川へ水は激しく流入し、堤防決壊や逆流によって大水害が発生する。事実この地域は水害の常襲地だった。

wajyu2 川の中に出来た中州は、やがて成長して川中島になる。そこは洪水の心配こそ常に付きまとうが、地味は肥えてるし魚も獲れる。また舟運にも便利だから新田開発が行われ人々が移住してくる。すなわち水郷の誕生である。

 だが水郷に住むための必須要件は水害対策である。人々は自分の屋敷を盛り土上に建てたが、もちろんその程度では不十分だ。第一、屋敷が水害を免れても田畑が冠水すれば水損不作になり意味がない。そのため住民は団結して堤防を築造し地域防災を計った。

 堤防は普通の土地ならば川沿いに連続堤を造るのだが、川中島の場合はその周囲を堤防で囲まなければ効果がない。堤防で囲まれた土地は輪中と呼ばれる。洪水に対して運命共同体である輪中の住民は、協力して輪中堤の補修や増強を続けてきた。

 中でも堤防の高さは防災上何より重要で、その高さを巡って対岸同士や各輪中間で対立が起きた。ところが江戸時代宝暦治水までは、木曾川の尾張側は御三家のご威光によって堤防の高さを対岸より常に高く、より強固に築造されていた。従って対岸や輪中の住民はそのしわ寄せに苦しんだ。

 そして輪中の苦労は外水防御だけではなかった。動力ポンプのない時代、水に囲まれながら良質な生活用水や農業用水の確保にも事欠き、また内部に溜まった廃水の処理も大きな課題だった。そのため輪中独特の農地利用法や、屋敷内の一画を特に高く盛り土した水屋という防災用建物の設置、盛り土集落の建設など、独特の住み方が編み出された。

 輪中の周りには時の経過と共に流れに沿って州が生成する。州が出来て互いに繋がった小さな輪中を順次連結統合して、長島輪中は次第に大きくなった。今では延長12キロ強の長い島、すなわち長島町になった。もちろん現在でも周囲は厳重に堤防で囲まれ、統合によって輪中内部に入り込んだ旧輪中堤は住宅地や道路に活用されている。

 現代に至るまでに長島では大きな歴史的出来事があった。すなわち一向宗長島一揆である。長島では16世紀中ごろ一向宗の勢力が拡大し、在地領主を追放して願證寺が一帯の支配権を握った。その後長島一向宗の勢力は各地から参集した浪人を加えて強大化し、織田信長と鋭く対立した。

 1570年に始まった信長の第一次長島攻めは織田方の惨敗で終わった。当時の長島は一つの島ではなく、いくつもの輪中の連合体だったから、大軍を繰り出しても大河の中では戦にならなかった。また信仰で固まった長島方は強く、坊主の鉄炮は良く当たると恐れられたという。

第二次攻撃では織田方が優勢だったが、近畿の動静が急を告げ撤退に追い込まれた。その後、織田方は伊勢志摩の水軍を旗下に加えて態勢を立て直した。1574年の第三次長島攻めでは、まず水軍に一帯を3ヶ月間包囲させて兵糧攻めの後、攻撃を開始した。その結果、長島方の拠点は次々に攻略され長島城もついに落城した。その落城悲話は信長公記にも記載されているほど悲惨だった。

 戦国の世が終わりようやく平和な時代になったが、輪中の住民にとって水との戦いは絶えることがなかった。その間行われた幾多の治水事業の中で歴史上特筆される事業は二つあった。それは宝暦治水(1753−1755)と明治改修(1887−1900)である。

 宝暦治水では、それに先立って起こった大水害の対策として、幕府は既存の堤防の補強やかさ上げ工事と共に、より根本的な治水事業も計画した。それは三川の間をつないでいた三つの分流に、締切り堤や流量制御のための洗堰の築造だった。

工事の施工は薩摩藩に命じられた。それはいわゆる御手伝い普請であり、計画設計と監理監督は幕府側が行い、施工と殆どの費用負担は薩摩藩という、元々雄藩疲弊策も含んだ薩摩藩にとって過酷な大事業だった。そして大河を相手の工事は当初から難工事が予想された。

だが現実は予想をはるかに上回った。折角仕上げた部分も増水によって簡単に元に戻り、幕府側の設計変更も再三行われ、その度にやり直しになった。石材・土砂・材木など工事資材の調達も難航し、人足の労賃も釣り上がって支出は予想外に膨らんだ。

 さらにお上風を吹かす幕府役人に逆らうことは出来ず、集めた人足は足元を見て思うように動かず、総勢947人の薩摩藩士は苦しんだ。その間工事上の労苦や受けた屈辱に耐え切れず切腹して果てた人が51人、病死者33人という異常事態の中で工事は進められた。もっとも幕府方現場責任者にも人足たちが指示に従わぬため仕上がり不良になった責任を取って切腹した人がいた。

 紆余曲折の末、工事はようやく竣工したが、薩摩藩には大幅な予算超過による莫大な借金が残った。総奉wajyu3行の平田靱負(ゆきえ)は多数の人的損失と莫大な予算超過、及び無理な資金調達を一存で実施したことなどの全責任を取って竣工後現地で自決し、桑名の海蔵寺に葬られた。

 薩摩藩士は竣工後油島締切り堤上に日向松千本を記念植樹した。それ以来約250年、その松は堤上に造られた県道に沿って千本松原と呼ばれる見事な景観を見せている。その北端には平田靱負を祭神とした治水神社と、犠牲になった薩摩義士を祭る義士堂があり、彼らの労苦と功績を顕彰している(写真参照)

 また明治改修事業は1873年に調査計画が開始され、工事は1887年に始まり長島地域の工事は1910年に完了している。明治改修の一連の事業はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが中心的役割を担った。この大事業によって木曾三川の長島一帯の流路は整然と分流され、川の様相は一変して今日地図で見られるような姿になった。

それでもその後も洪水は再三発生した。特に1959年の伊勢湾台風では洪水と高潮によって破堤し、長島町全域は大きな被害を受け、382人の犠牲者が出た。そして伊勢湾沿岸全域の犠牲者数は5千人を越える大災害になった。

 河川の改修・浚渫・地下水汲出し規制・堤防の補修強化・上流部の治山やダム建設など、各種治水努力は今も絶え間なく続けられている。しかし近年各地で発生した大水害は、ダムと連続堤を中核に置いた現代の治水方式の限界を暗示している。

 それに伴い20世紀半ば以降やや軽視され気味だった輪中の有効性に再び目が向けられている。ところがその一方で、名古屋市の都市圏拡大の波は長島にも及び、土地の高低や水害を余り配慮しない安易な宅地開発も一部で進んでいるというが、歴史の教訓は決して甘くないはずだ。

 長島にある「輪中の郷」は長島形成の歴史や水害の記録・木曾三川の改修とその変ぼうなどを説明すると共に、長島一向一揆の解説や輪中での生活用具や農耕具などの実物展示をしている。当館は複合型郷土資料館であり、産業体験学習館も併設されている。

 なお当館から2〜3キロの範囲には国営木曾三川公園や船頭平河川公園があり、前述の治水神社や千本松原記念碑やデ・レーケの銅像・展望塔・船頭平閘門など関連施設が散在している。公共交通はあまり便利ではないが、一周すれば大河と戦った先人の労苦がよく分かる。

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(作成日: 07/07/08、 更新日: )

 

(施設情報)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

輪中の郷_三重県桑名市長島町西川1093_TEL 0594-42-0001 _

JR関西本線・近鉄名古屋線長島駅から3.6km(17deg.W 2.8km)。近鉄名古屋線近鉄長島駅南側から町内循環コミニティバス(Kバス)利用(ただし 便数は少ない)、近鉄駅前からタクシー約10(帰路は電話呼び出し必要)_

駐車場 無料50台_中_大人子供_

9:30-16:45(16:00)_

月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、直後の平日に休館)12/281/4_{17/01/31}