内原郷土史義勇軍資料館

迷わずにと送別されたクワの戦士

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  参照(分村移住A)  参照(分村移住B)

 水戸市の西部、内原町には今でも農業の実践教育施設が置かれている。1938年(昭和13年)から45年の終戦時まで、ここでは旧満州(中国東北部)への農業移民、特に全国から集められた満蒙開拓青少年義勇軍隊員の、渡航前予備訓練が行なわれた。

 満州への農業移民政策には下地があった。すなわち大正後期から始まった日本国内の一連の経済的混乱と、昭和初頭の世界大恐慌に誘発された昭和恐慌は、日本経済はもちろん農漁村までに著しい打撃を与えた。さらに東北地方を襲った冷害や津波は打撃を追い討ちして、社会不安が表面化した。

 政府は重要産業統制法などを制定し、色々打開策を講じたが、一向に効果が上がらなかった。しかも人口増加は著しく、人口圧力の軽減にも迫られていた。結局、問題解決には軍需産業の拡大による見せ掛けの景気回復と、武力を背景にした海外進出という危い道が選択された。

 その進出目標となったのが、かねてから日本が経済権益を持っていた満州だった。満州の支配権獲得をねらった日本は1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、翌32年には一方的に満州国の建国を宣言した。

 その建国理念は五族協和による王道楽土の建設とか、財閥排除などと立派だった。しかし満州事変の現地調査をした国際連盟のリットン調査団はその報告書で、満州事変を日本の侵略とし、満州国を日本のかいらい国家と見なした。

 その結果、国際連盟は満州を中国の主権範囲内とする決議を採決し、それに反発した日本は国際連盟を脱退した。その後、国際的孤立を深めた日本は、満州を日本の生命線と称して、その植民地化へまい進する。その政策の一環が農業移民の送出だった。

 これによって日本国内の耕地不足を補い、あわせて満州国辺境地帯の治安維持やソ満国境地帯の警備強化などを策したとされる。しかし農業移民の入植のために耕地を安値で強制買上げされた現地人の反感は激しく、逆にゲリラ活動を多発させてしまった。

 満州への農業移民はすでに明治後期から始まっているが、一部の例外を除けばあまり成功しなかった。それを国策として実施するのは1932年からで、35年ごろまでを試験期とした後、36年に20ヵ年百万戸移民計画が策定され一挙に本格化した。

 移民の対象として選ばれたのは、主として自立困難と見なされた五反歩以下の小規模農家だった。1937年から41年にかけて、国はこの政策を分村移民とか分郷移民という集団移民の形式で強力に推進した。分郷とは数ヵ村合同を意味している。

 だが1941年末に太平洋戦争が始まると、人員不足のため移民団の編成は難しくなった。その代わりとされたのが16才から19才の青少年で、1941年から45年までは彼らが主流を占めた。満蒙開拓青少年義勇軍政策の推進には朝日新聞社が宣伝面で大いに関わった。

 そして1932年以来の満州への農業移民数は三十数万に上ったが、ソ連軍の侵攻と終戦時の混乱で日本に帰国できたのはその三分の一程度とされる。現代の中国残留孤児問題の芽もここから発生した。

 内原訓練所は面積42ヘクタールで、一万人以上の収容能力を持つ大規模な施設だった。訓練は軍隊式に行なわれ、開拓の初歩知識のほか、皇国精神や日本武道、軍事訓練、農作業や野外作業などを2ないし3ヶ月間教えた。

 1938年以来、足掛け8年間に内原から巣立っていった青少年義勇軍隊員は約87,000人だった。予備訓練修了者は渡満後に現地で3年間の本訓練を受けてから、一般農民と違い北満の原野へ一種の屯田兵のように配置された。

 現在、内原訓練所の跡地には少数の附属建物が残っている程度だが、隊員が造成し桜を植え、そこを行進して去った道路は、満蒙道路(写真参照)と名付けられて現存する。その近くに「内原郷土史義勇軍資料館」があり、実物資料や説明パネル、一棟の復元宿舎(日輪兵舎)などで当時の厳しい史実を紹介している。当時は300棟以上の日輪兵舎があった。

 長く続いた農業恐慌で農村が極度に疲弊した果てに戦争が始まった。また国から募集ノルマを課せられた行政末端は一人10町歩の地主になれるとの甘言まで行なって強引な勧誘をしたようだ。このような状況下に置かれた若い隊員たちには多少の迷いがあったにしても、未来への淡い希望と素朴な愛国心から進むしか道はなかったのだろう。

 ところで内原の南西約120km、東京都西部に広がる多摩丘陵の一角に都立桜ヶ丘公園がある。公園には通称拓魂公苑が隣接している。ここには満州開拓殉難者之碑(通称拓魂碑)が立っている。この碑の周りを全国各地から移住した開拓団の慰霊碑が多数囲んでいる。

 拓魂碑建立趣旨によれば、約30万人の開拓関係者のうち8万余が犠牲になったと刻まれている。この数字は上記の数字とかなり異なる。そこには青年男子を対象にした内原の数字と、子供も含めた開拓者家族の犠牲者の数字とは集計対象の違いもあるだろう。

また青年隊員の場合、終戦を目前にしてそのほとんど全員が現地召集され、戦後はシベリア抑留を余儀なくされたからその層の損害は別に計上されたかもしれない。筆者にはその間の事情はよく分からない。いずれにしても不適切な国策遂行が日中双方の民衆に多大な被害を与えたのは確かである。

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(作成日: 03/03/01、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

水戸市 内原郷土史義勇軍資料館_茨城県水戸市内原町 1497-16_TEL 029-257-5505(資料館)029-259-4044(内原中央公民館)_

a)JR常磐線内原駅から1.6km(30deg.E 1.3km)徒歩22分、タクシーあり、

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