津山洋学資料館

お寺の形をした元銀行は洋学資料館

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 津山市は中国地方の内陸部にあり、中国自動車道が開通するまでは鉄道幹線から外れた静かな田舎町だった。江戸時代には津山藩の城下町として美作(みまさか)地方の中心地であり、また山陽・山陰地方の交通の中継地として、吉井川の水運でも繁盛していた。

 一見して寺に見える大正時代の銀行(挿絵参照)は、移転前の「津山洋学資料館」旧館の入り口だった。その建物は千鳥破風入母屋(ちどりはふういりもや)造りという寺院風の建物だが、赤煉瓦の門柱や鉄製扉と奇妙な対称を見せていた。建物は釘を一本も使わない建て方をしていたそうだ。

 津山藩からは江戸中期以降、蘭学の宇田川玄隋(17551797)や箕作阮甫(みつくり・げんぼ 17991863)などの学者が出ている。従って当館の展示は彼らとその一門の業績紹介を中心にし、郷土の民俗資料を加えて構成されている。

 玄隋は1793年に10年間の努力によって、西説内科撰要18巻を翻訳出版した。これはわが国最初の西洋内科学の書籍であり、体系的な内科学発展の端緒となった。彼の没後も養子や門弟の手で翻訳作業が継続され、増補改訂版は1822年に完成した。

 その翻訳に当たって玄隋は、漢方の病名との対比に苦労したという。それは先頭を切った人が直面する苦労であった。ちなみに大体同時代に活躍した大槻玄沢がその子息を漢学者にしているが、その理由は適切な訳語を造るために漢文の素養が欠かせないとの考えからだった。

 阮甫は蘭学を学び幕府の蛮書調所出役教授職から幕臣に登用された人で、医学中心の蘭学をもっと幅広い領域まで広げ、洋学という分野を確立している。彼は種痘の普及にも努め、幕府の外交交渉にも関与している。その子孫からは各分野に著名な学者が多数輩出している。

 なお旧館の前は旧出雲街道が通り、近くには阮甫の生家が残っており、国指定史跡になっている。もっとも建物は古くなって解体修理をしたが、彼が居住していた当時の造りが不明確で、一部は当時の通例によって復原されている。この周辺には古い建造物が残り、城東むかし町として町並保存地区になっている。そして「津山洋学資料館」は阮甫の生家の隣に移転新設された。

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(作成;: 00/09/13、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

津山洋学資料館_岡山県津山市西新町5 箕作阮甫旧宅の東隣_TEL 0868-23-3324_

a)JR津山線津山駅から約1.7km徒歩約23(57degs.E 1.5km)

b)津山駅から市内東循環ごんごバス南回りを利用し約10分「西新町」下車後徒歩2分_

駐車場 あり_中_大人

9:00-17:00(16:30)

月曜日(祝日に当たれば開館し、その翌日休館)、祝日の翌日、12/291/3_

{17/02/18}