都留市博物館(ミュージアム都留)、 宇治・上林記念館 

屋台の飾り幕が示す郡内縞の富

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参照(芭蕉A)  参照(芭蕉C)  参照(一揆A)

 中央本線大月駅から河口湖へ向かう富士急の沿線に都留(つる)市という町がある。現在ここにはリニアモーターカーの実験施設が設置されている。相模川上流(桂川)の流域に当たる当地方一帯は郡内と呼ばれ、都留市谷村(やむら)はその中心地だ。

 ここに「都留市博物館・ミュージアム都留」がある。当館は地元の八朔祭(はっさくさい)を中心にして、当地の歴史を紹介している。都留の地名はすでに1300年前から甲斐国四郡の一つとして記録されているそうだ。

 戦国時代には武田の重臣小山田氏が谷村に本拠を置いていた。その滅亡後は豊臣氏の一族や重臣の領土となり、関東の徳川氏へにらみを効かせていた。江戸初期には徳川譜代の鳥居氏、次いで秋元氏が封じられ、谷村城造営と産業基盤の整備や殖産に力を注いだ。1704年からは天領になリ城は撤去されたが、町の性格はそれ程変わらなかった。

 郡内は元来、山国で農業は振るわず、昔の住民は山仕事・養蚕・機織り・行商・馬方などで生計を立てていた。特に機織りは上州から移封された秋元氏が奨励し、早い時代から絹織物の産地として知られた。

 江戸後期の文化文政期には郡内縞という縞織物が人気を博し、町は大いに潤った。地元の生出(おいで)神社の八朔祭には豪華な屋台が造られ、その飾り幕は当代最高の浮世絵師たちに下絵を描かせた。

 加えて谷村には他所にない史実が三つあった。すなわち茶壷道中の途上で茶壷の一時貯蔵所になったこと、松尾芭蕉が長期滞在したこと、及び郡内騒動の発端地の一つになったことだ。

 江戸時代、将軍家御用のお茶は毎年初夏に宇治から江戸へ運ばれた。これを茶壷道中といい、大名行列に優先すると定められていた。その権威を傘に着る役人には横暴な振舞いも多く、沿道住民は迷惑したという。

童謡「ずいずいずっころばし」はその情景を表現しているといわれる。「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壷に追われてとっぴっしゃん……」と災難を恐れる住民は戸を閉じて家に閉じこもり、その通過を待った。

 徳川家綱から吉宗への約数十年間、茶壷道中は中山道・甲州街道経由で大月に至り、大月で甲州街道をそれて谷村城に入り、その茶壷蔵の風穴で夏の間保管された。預かる側も大変だっただろう。この谷村城での保管は吉宗の享保改革によって廃止され、1738年からは中山道経由となり幕末まで続いた。

 芭蕉は1683年に谷村へ半年逗留した。彼が38〜9才の時で、芭蕉の号を使い始めた頃だった。谷村滞在は前年末の大火で深川の芭蕉庵が類焼したため、弟子の谷村藩国家老に招かれての来訪だったという。

 来訪の目的には諸説あるようだが、彼はこの旅を楽しみ、その翌年から野ざらし紀行に始まる漂泊の旅を開始した。そして「わび」と「さび」を重んじる蕉風の俳句を確立する契機となったといわれる。

 郡内騒動は甲斐騒動とか郡内一揆などと様々な呼び方をされているが、全国的に見ても最大級の一揆として知られる。1836年(天保7年)、谷村の百姓の打ちこわしがその発端となり、大月と上野原の百姓の米穀商への集団での販売強要の騒ぎに発展した。

 原因は天保時代に数年続いた全国的天候不順による凶作で、それに幕府の失政と米穀商の買占めが加わり、米などの価格が暴騰した。このため元来、米が乏しい郡内では米の入手自体が困難になり、社会不安が発生した。

最初は統制の採れた行動だったが、あっという間に甲斐全域に広まり無統制化して大規模な暴動に発展した。幕府の甲府勤番や代官所の力では抑えられず、幕府は周辺諸藩に出兵を命じて、ようやく鎮圧した。

一揆側も犠牲者は出たものの、貢租の三年間大幅減免その他の果実を得ている。実質的に幕府の権威が揺らぎ、その崩壊が始まったとされる時代のことだった。なお一揆の初段階を指導した二名の首謀者の一人、旧犬目村(上野原町犬目)の兵助のその後はかなり分っている。

彼は一揆が無統制化した段階で郡内衆を引揚げ、自身は巡礼者に変装して脱出した。行く先々でそろばんや字を教えながら秩父から北陸・関西・山陽・四国・伊勢を回った。その後、木更津で寺小屋を開いて十数年間暮らし故郷へ戻った。

故郷では義民として村民が秘密裏に庇護したのだろう、彼は十数年間余生を送り維新前年に天寿を全うした。秩父から伊勢までの約1年間の彼の道中日記が現存しているそうだ。彼は逃走前に道中手形を用意していたし、幕府の統制も緩んでいたのが幸いしたようだ。

 ここで茶壺道中に関して少し付け加えると、茶壺のお茶の調達は京都・宇治の代表的な茶師・上林(かんばやし)氏が担当した。上林氏は当時宇治茶の生産流通を掌握していた一族で、すでに秀吉からも宇治茶業の茶頭取として遇され、宇治郷の代官にも任じられていた。

 

 徳川時代になると幕府は宇治茶師の制度を定めた。そこでは代官家・御物御茶師(おものおちゃし)・御袋(おふくろ)御茶師・御通(おとおり)茶師・御控茶師など、宇治茶師三仲間における身分と役割を厳格に規定された。彼らは将軍家や御所などへの御物御壺(ごもつおつぼ)の預かりから献上品の調達までを組織的に行なった。

 

宇治の茶業は良質な茶葉の栽培と優れた製茶技術の開発によって名声を博し、代表的な産地として大いに栄えた。上林(かんばやし)一族やその他の有力な茶師は長屋門のある屋敷を構え、その数は16軒もあったという。画像 066

 

 だが明治維新後は特権的地位を失い、茶師は次々に転廃業し長屋門も取り壊された。現在では上林春松家の長屋門だけが、片方の部屋を切り取り縮小された状態だが残っている(写真参照)

 

屋敷内には「宇治・上林記念館」があり、館内には秀吉や利休・織部・遠州などの消息や古文書、茶壺や製茶道具などの展示、製茶工程や茶道中に関する解説をしている。

 

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(作成日: 02/10/18、 更新日: 12/01/04)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_駐車場_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

都留市博物館(ミュージアム都留)_山梨県都留市上谷 1-5-1_TEL 0554-45-8008_

富士急大月線谷村町駅から0.1km(SE 0.1km)徒歩2分_中_大人子供_

9:00-17:00(16:30)_

月曜日(祝日に当たれば開館し、翌火曜日休館)、祝日の翌日、12/281/3、特別整理期間(1回1週間程度)_{17/03/02}

 

宇治・上林記念館_京都府宇治市宇治妙楽38(宇治橋通り)_TEL 0774-22-2513_

a)JR奈良線宇治駅から0.5km(N75degs.E 0.3km)徒歩7

b)京阪電鉄宇治線京阪宇治駅から0.6km(S32degs.W)徒歩8分_

駐車場はない_大人_小_

10:00-16:00(時間はやや明確でない、要照会)_

金曜日、8/131612/301/5_個人の見学は予約の必要はないが、団体は予約が必要_{17/02/18}