富岡製糸場

 

喜びも中くらいかな登録も

 

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 群馬県西南部に位置する富岡市、そこからは妙義山などの関東山地の山々が西方に見える。昔から関東平野の北側と西側及び甲信地方一帯は養蚕や生糸の生産が盛んに行われた。富岡も生糸や絹織物の集散地の一つ、富岡絹として流通していた。

 

 江戸時代の富岡には一万石の大名の陣屋が置かれ、また中山道脇往還の宿場町として繁盛していた。そこは関東山地の南牧村(なんもくむら)から産出した幕府御用達の砥石輸送の中継地としても機能していた。

 

 幕末には生糸の輸出が始まって、生糸集散地の多摩・八王子から横浜へ多量の生糸が運ばれた。通称絹の道の出現である。それは八王子に限らず、北関東に散在した生糸の集散地に共通する現象だった。ただその生糸は各々の集散地の後背地にある養蚕地で、各農家が手回しの座繰り器によって作った生糸を買い集めた物だった。

 

 蚕が作った繭は、繊維になるフィブロインをセリシンという湯溶性のタンパク質が固めている。繭を湯に漬けるとセリシンが溶けて絹の繊維がほぐれる。それを巻き取って生糸にする工程を操糸(そうし)というが、各農家の作業法や繭の性質などに微妙な違いがあるため、出来上がった生糸の品質はそろわなかった。

 

 生糸の品質が不ぞろいなら、生糸を扱う外国人貿易商は安く買いたたくし、日本産生糸の評価も悪くなる。しかし当時のヨーロッパでは蚕の伝染病で養蚕業は壊滅的な被害を受けていたから、日本産生糸の需要は品質向上さえ出来れば大きかった。維新後明治政府は富国強兵と産業振興を唱えて生糸輸出振興を重視したが、そのためには生糸の品質向上と規格化が必須だった。

 

そこで当時の絹産業先進国フランスやイタリアから操糸技術の導入が検討された。その結果、国内に官営の器械式操糸模範工場を建設し、フランスから最新式の操糸器械を輸入し、仏人の技術者や工女も招聘した。その工場に国内各地から募集した若い女性を入場させて器械操糸技能を習得させ、各地に開設予定の民間器械操糸工場に技能指導役として配置することになった。

 

 模範工場の設置場所には冨岡が選ばれた。選定理由は養蚕地帯であったこと、農業に向かない広い土地が得られたこと、良質な用水が豊富に得られ、燃料の亜炭が近くで産出したことなどだった。もちろん当地が小藩の領地で、街道が通り商業活動も盛んで住民の気風が開けていたこと、さらに発案者の一人・渋沢栄一の出身地が近かったのも幸いしたのだろう。

 

 工場は仏人の設計指導の下、1871(明治4)に建設工事を開始し、翌1872年に主要建物が完成した。その煉瓦造りの洋風建築物は、現代人が見ても大規模な建物だから、当時の人々はさぞ驚いたと思われる。

 

 明治初期には煉瓦さえ国内では入手できず、苦労の末近隣地で初めて焼成された。もちろん鉄骨も国内にはなく、主要建物は木骨煉瓦造りだった。工場の小屋根は広い空間を確保するため、トラス構造が国内最初に採用され、窓ガラスや鉄製窓枠、蝶つがいなども全て輸入品だった。

 

 糸をとる工女は養蚕地帯各地から募集したが、当初は赤ワインを飲む仏人を恐れて悪評判が流布し、応募は少なく募集に苦労したという。初代場長は渋沢栄一の義兄・尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)だったが、その彼も率先垂範のため娘の尾高勇(おだか ゆう 当時14)を工女第一号として入場させている程だった。

 

 やがてデマも収まり、各地から選ばれた若い女性が集団入場し、創業半年後には約500人の工女が働いていた。工女の出自は士族や農民など色々だったが、技能を習得してから出身地へ戻り、目論見通り故郷に創設された製糸所の技能指導役として活躍した人も多かった。ただ騒音や高温高湿度環境下の作業と規則の厳しさから中途退場する人も少なくなかった。

 

 富岡製糸場は国が仏人技術者ブリューナー指導の下で設立した模範工場なので、日曜日もあり八時間労働制を採用していたとされる。また入院施設を備えた診療所もあり、後には読み書き算盤・和裁などを教える夜学も設置され、当時としては規模・設備・内容共に画期的な施設だったといえよう。

 

 ブリューナーは冨岡で使う蒸気器械操糸設備やその他機械器具を小柄な日本人が作業しやすく、また日本の高湿度を合致するように特注したフランス製の高価な設備を輸入した。動力源と熱源はすべて蒸気を利用していた。

 

 延長140mもある操糸場には創業当初、操糸器が300釜も並び、当時世界最大規模の製糸工場だったという。その後、工場では品質のそろった生糸を多量に生産するため絶え間ない改善改良が行われた。従って富岡製糸場には当時の操糸器は残っておらず、現在工場内に保存されているのは昭和40年代以降に設置された自動操糸機である。

 

それは一世紀に及ぶ操糸機器改良努力の成果を示す機械といえる。そして創業期の面影を残した大正初期の操糸器は岡谷市蚕糸博物館に一連だけ保存されている。冨岡製糸場にはその複元器が岡谷市から寄贈され、それは展示解説や操糸の実演に使われている。

 

 冨岡製糸場開設当初に糸をとった工女たちの様子は、その一人であった和田英(わだ えい 旧姓横田英() 18571929)の回想録「富岡日記」に記載されている。彼女は旧松代藩中級武士の娘だった。

 

 富岡日記によれば、冨岡開設時、松代からも16人の若い娘を冨岡へ派遣せよと県から指示されたが、デマの所為で当初は応募者皆無だった。当時松代の区長を務めていた彼女の父は立場上大いに困り、当時満15歳半だった次女を行かせることにしたら途端に応募者が続出し、最後は満員締め切りになったそうだ。

 

 彼女は伝習工女として1873年に入所し、同郷者の中心的存在になった。彼女は旧松代藩の誇り、すなわち郷土の名誉を心がけて頑張り一級工女に昇進している。そして入場後一年三カ月後、松代から同行した人の中で病気退場した二人を除く人たちが目的を達して帰郷した。

 

 その後彼女たちは松代に1874年に創業した民間資本の蒸気製糸所「六工社(ろっこうしゃ)」で指導的役割を担った。そこは官営の冨岡製糸場とは違い、資力の乏しい民間企業であり、すべてが無い無いずくしの状態に戸惑いながらも創業期を支えたことが記録されている。

 

 なお付言だが英の実弟たちは大審院長と鉄道大臣に、甥は最高裁長官として活躍した。また彼女の生家は江戸後期の武家屋敷として重要文化財「旧横田家住宅」として松代市内に保存されている。

 

 話を冨岡製糸所に戻すと、その敷地面積は約5,4000u、敷地内の建物は大部分が重要文化財に指定されている。そして今では「冨岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産条約による産業遺産に登録された。

 

 それには冨岡製糸所の他、蚕種保存施設の荒船風穴・近代養蚕農家の原型田島弥平旧宅・民間養蚕教育施設の高山社跡が含まれている。それら群馬県南部の各施設が相互に関わり合って日本の養蚕業と生糸生産技術の近代化に貢献し、それが戦前における世界最大の生糸輸出国へ繋がり、今では世界各地の製糸業の振興にも貢献した。また病害で壊滅的損害を受けた各国への蚕種の供給にも大いに役立った。

 

 冨岡製糸所は1972(明治5)10月に操業を開始したが、1893年には三井家に払い下げられた。工女の養成と各地の民間製糸所への開設指導や技術移転には大いに貢献したが、矢張り官営企業特有の非効率は避けられなかった。

 

 さらに1902年には原合名会社に譲渡され、1938年には独立し、1939年には片倉工業の工場になり、1987年まで操業した。操業終了後も片倉工業の故柳沢晴夫社長の方針で、売らず貸さず壊さずに大切に保存された土地建物は、2005年に国の史跡に指定された。その後、建造物一切は富岡市へ寄贈された。

 

 このような経緯を辿った後に、世界遺産登録という慶事に至ったのだが、登録によって施設の保全を世界に約束することになった。時間と共に老朽化の進む産業遺産を維持管理して永く保全して行くのは並大抵のことではない。一茶流にいえば、「喜びも中くらいかな登録も」ということになりかねない。浮かれも程々にと心すべきだ。

 

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(作成日; 14/06/25 ,更新日 )

 

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明。

 

富岡製糸場_群馬県富岡市富岡1-1_TEL 0274-64-0005_

JR高崎駅から上信電鉄に乗り換え約40分上州富岡駅下車徒歩0.9km(S35degs.W 0.6km)12分。_

駐車場 市営有料駐車場利用、徒歩約10分。ただしバス利用の団体は二週間前までの完全予約制_大人_中_

9:00-17:00(16:30)_

12/2912/31、点検整備のための臨休あり_

なお敷地内や建物内を定時に解説案内する_ミュージアムショップあり_{14/06/25}