東北歴史博物館

古い石碑の残る新天地侵略の拠点

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 北九州の太宰府と東北の多賀城、この東西二つの遺跡には8〜9世紀に大和政権の出先機関が設置され、遠つ朝廷(とおつみかど)と呼ばれていた。両者は大和から見て遠隔の地であり、ここを拠点としてその周辺地域を政治的・軍事的に統治していた。

 だが、この両者には別な面で大きな相違点があった。太宰府は中国大陸や朝鮮半島など、当時の先進国に近く、それらとの外交交渉の場として、また先進文化の導入窓口としての役割を担っていた。

 これに対して、多賀城は陸奥国と出羽国の統治をする役所であると同時に、大和政権の支配が及ばない東北地方北部への進出を目指す軍事基地でもあった。大和側が未開の民と見なしていたエミシの懐柔と制圧、言葉を変えれば東北の土地を狙ってのエミシ支配地への侵略拠点でもあった。ここを拠点としたエミシとの戦いは半世紀にも及び、780年の伊冶呰麻呂(いじのあざまろ)の乱では逆に多賀城が陥落して炎上した。

 現在、仙台市と松島の中間に多賀城遺跡(政庁跡)が残り、国の特別史跡に指定されている。また、その南門の近くに有名な壺の碑(つぼのいしぶみ)がある。この石碑は762年に造られた日本三古碑の一つで、昔から歌枕として知られる。

 例えば西行は「むつのくの おくゆかしくそ おもほゆる つぼのいしふみ そとのはまかせ」と詠んでいる。江戸初期に出土したこの石碑は徳川光圀も家臣を派遣して調べさせたほどのものだ。すでに江戸時代からその真がん論争があり、明治以降も激論が交わされたが、多賀城遺跡発掘調査の結果、ようやく本物と認定され、重要文化財に指定された。

 そこから少し歩くと「東北歴史博物館」がある。当館はその場所柄、東北地方全般を通史的に紹介しようとしている。当然、多賀城の歴史や奥州藤原文化などが主要な場面として登場する。また地元の伊達藩とその城下町・仙台の説明もある。

 多賀城に関してはその規模、設置目的と歴史、建物の配置とその変遷、勤務した役人などの人数や業務内容などを紹介している。当然、壺の碑についてもその碑文の説明や意義、歌枕となった様子などが紹介されている。

 ただ、東北地方は広大で、その風土も多様だから、その展示は点にスポットを当てた感じになるのは致し方ない。その展示の中に東北各地に残っているわら人形の風習を紹介するコーナーがある。例えば福島県の身長4メートルもあるお人形様や秋田県の厄神様などで、これらは大きく珍しいので目を引かれる。

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(作成日: 01/07/05、 更新日: 01/08/26)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報再確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

東北歴史博物館_宮城県多賀城市高崎 1-22-1_TEL (情報サービス班) 022-368-0106022-368-0101()_

a)JR東北本線国府多賀城駅のそば徒歩2分、

b)JR仙石線多賀城駅からは1.7km(50deg.W 1.3km)タクシーあり_中_大人子供_

9:30-17:00(16:30)_

月曜日(祝・休日に当たれば開館し、翌平日休館)12/291/4、臨時休館あり_{17/08/02}