達磨寺タウト展示室

日本文化を愛した独人名建築家

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 福だるまで知られる高崎市西郊の少林山達磨(だるま)寺。その境内に古い木造家屋・洗心亭がある。傍らに立つ小さな石碑には「ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR 24.8.34 Bruno Taut」と短い独文が刻まれている(写真1参照)

 「私は日本の文化を愛する 1934年8月24日 ブルーノ・タウト」と訳されるこの碑文は、近代ドイツが生んだ世界的建築家の一人、ブルーノ・タウト(18801938)の画帳から写された。1934年8月から2年2ヶ月間、彼はエリカさん(有能な助手として生涯行を共にした女性)と共にこの小さな家に住んだ。

 彼はここで後に群馬県工芸所となった群馬県工業試験場高崎分場の人々に工芸品製作の指導をしながら、国内各地を旅行して、その地の文化人・工芸家・日本画家・版画家たちと交流した。その間に見聞した日本の建築や自然の美しさ、当時の日本人の生活や美意識、日本文化などに関する著作を彼はこの洗心亭で執筆した。

 彼は現在ロシア領になっている旧ドイツ帝国東プロイセン州出身で、当時新しい建築材料と見られていた鉄やガラスを活用した「鉄のモニュメント」やパピリオン「ガラスの家」の設計によって、若いころから注目された。

 また文才や画才にも恵まれていた彼は、詩やエッセイに美しい色彩の挿絵を挿入した著作「都市の冠」「アルプス建築」「宇宙建築師」「都市解体」などによっても国際的に知られた。そこでは幻想的・叙情的な感じの、ロマンチックで壮大な建築空間が表現されている。また「色彩宣言への呼びかけ」によって建築空間への色彩の意識的活用を提案している。

 さらに第一次大戦後の1924年から1930年には、ベルリン郊外に田園都市構想に基づく12,000戸のジードルング(集合住宅)の設計を担った。現代日本でごく普通に見られる住宅団地開発のさきがけだった。

 これらの業績により彼はシャルロッテンブルク工科大学教授に就任し、プロシャ芸術院会員となり、ドイツ建築家協会では中心的役割を担った。現代ではドイツ表現主義時代を代表する建築家と見なされている。

 その後ソ連政府の招きに応じて大モスコー都市計画や住宅団地開発に参画したが、建築思想の相違から短期間で辞任した。しかしこの訪ロは当時政権を獲得し共産主義敵視政策を掲げるナチス党から容共文化人とみなされる理由になった。逮捕の近いのを察知した彼は急遽祖国脱出をした。

当時、世界最先端を歩んでいたドイツ建築界には、多くの著名な建築家がそれぞれ斬新な理論を唱えて国際的に活躍していた。極端な民族主義を実行したヒットラー統治下のドイツでは、国際派と目される俊才たちの頭上にはタウトと同じ運命が訪れる。

 建物の機能性を重んじる国際様式を提唱し、また建築の工業化論を唱え、かつそれらを実現する形でバウハウスを建設し、さらにそこで近代的建築教育を行ったワルター・グロピウス、鉄とガラスの摩天楼の構想を提起したミース・ファン・デル・ローエなど著名な建築家も亡命に追い込まれた。

 タウトは日本インターナショナル建築会の招きに応じて数カ国を訪れた後に来日した。しかし経済恐慌を脱しきれぬまま戦雲が近付いていた当時の日本では、彼ほどの建築家が存分に腕を振るえる機会や場はなかった。なにしろ折角東京オリンピック開催が決まっていたのを、競技場建築のための鉄材が一・二隻の駆逐艦建造に転用できると惜しんで辞退した国だったからだ。

従って彼の日本での建築実績は熱海の旧日向邸増築部分など僅か二件に過ぎなかった。それでも旧日向邸は近代様式の建築・環境の保存を提唱する国際組織(ドコモモ)100選に選ばれている。やむなく彼は日本滞在の最初を仙台で、次いで高崎で工芸品デザインや製作法近代化の指導をして過ごす。

現代の感覚では建築家が工芸デザインの指導をするのは少し奇異に思えるが、当時はペータ・ベーレンスやグロピウスなどが芸術や工芸と工業及び建築の造形的融合を唱え、建築と共に内装や家具のデザインも手掛けていた。第一次大戦後の混乱したドイツでは建築の仕事が少なかったのを補う面もあったようだ。

 この考え方は画家を志したこともあり、色彩宣言を行ったタウトにしても同じだった。彼は「私は工芸家ではないが、どんな小さなことの中にも全世界を収めることが可能だ」との信念で、工芸分野にも全力を傾注したという。

そして在来素材と伝統的技法を活用しながら近代的なデザイン法や生産方式によって国際的に通用する工芸品を作ろうとした。この彼の方針は日本の近代工芸の進路に大きな影響を及ぼした。仙台の工芸指導所跡には剣持勇氏デザインの工芸発祥記念碑が建立され、タウトの名前も刻まれているという。

 彼は著作の中で伊勢神宮や合掌造り民家の簡素だが歴史の組み込まれた建築的な構造美や、桂離宮の自然と建物との素晴らしい融合を絶賛している。その反面、日光東照宮では世界のどこにでも見られる権力者好みの建築的俗悪さを切り捨てている。

tauto2 彼は当時の日本人の貧しいながらも自然環境と共存した生活様式や美意識、及び日本文化を鋭い直感で内面から深く理解し、それを温かい目で見ていた。彼は先心亭の六畳と四畳半しかない質素な暮らしに不便を感じながらも、その地の風光を本当に好んだようで、出来れば自分の遺骨を少林山へ埋葬してくれとまで言い残している。

 洗心亭は大正時代に学者の仕事上の住まいとして建てられた家屋だが、彼が滞在したため今では群馬県指定史跡として大切に保存されている(写真2参照)。当時ここへは柳宗悦やバーナド・リーチが、また建築や工芸分野の若い学究も多数訪れたという。

 彼の日本での亡命生活はトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請によって三年半で終わった。同アカデミーは彼を建築科主任教授として遇し、またトルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクは政府最高建築技術顧問に任命している。

 再び建築の仕事に出会えた彼は国会議事堂やアンカラ劇場、アンカラ大学やアンカラ工大など、新生トルコ共和国の重要建築物の設計に精力的に取り組んだ。しかし過労のためか二年余りで急逝し現地に葬られた。享年58歳だった。その翌年、生前の言葉に従ったエリカさんが再度来日して、彼のデスマスクや遺品を達磨寺に納めている。

 本人が「建築家の休日」と称したように、滞日中は建築の仕事に恵まれず経済的にも不本意だったに違いない。その間、日本でも国粋主義が台頭し世情は狭量さを増し、特高が尾行するなど、外国人にとって日本は次第に住みにくい国に変わっていった。彼も心ないひぼうを受けるようになった。

だが若い頃から彼が興味を持っていたといわれる日本建築とその美意識を現実に見聞して、建築物と環境との調和融合を重視した自己の建築思想の正しさを再確認した思いはあったであろう。かねてから彼は建築を釣り合いの芸術と述べていたからだ。

 彼の建築思想は環境重視の現代、今日的な意味合いを持っている。事実、その生誕100年を記念して先年ドイツを皮切りに各国を巡回した回顧展は成功を収めた。その彼が多くの著作を通じて日本を紹介してくれたのは、日本にとって幸いだった。

洗心亭で書かれた図書の中で「ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た」「日本文化私観」「日本美の再発見」などは版を重ねて多くの人々に読まれた。70年も前のごく短い期間の個人的出来事が、いまだに日本人の脳裏に残っているのは、彼のすばらしい遺徳といえるだろう。

tauto3 達磨寺の瑞雲閣には「タウト展示室」があり、彼のデスマスクはもちろん、数々の遺品や遺稿、及び彼がデザインした工芸品や椅子などが展示されている。境内には彼と夫人が毎日散歩した場所を結ぶ「タウト思惟の徑(しゆいのみち)」が設けられている。なお境内には各種のだるまが沢山陳列されている達磨堂もある(写真3参照)。だるまの生産は江戸時代に当寺の住職が民生救済のため勧めたものが、気象風土の適した当地で発展した。

 かつて高崎市内の創造学園大学にはブルーノ・タウト記念館があって「ブルーノ・タウト資料館」が設置されていた。ここにも彼の遺品や手書きの文書、彼デザインの工芸品などが展示されていたが、学園自体の破綻によって閉館になった。彼の史料は岩波書店へ返還された。その後達摩寺に彼の博物館設立の動きもある。

 

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(作成日: 05/04/15、 更新日: 11//07/31)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報再確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

黄檗宗少林山達磨寺(だるまじ)タウト展示室_群馬県高崎市鼻高町 296番地 達磨寺瑞雲閣内_TEL 027-322-8800_

a)JR信越線群馬八幡(ぐんまやわた)駅から1.6km(3degs.W 0.8km)徒歩21分、

タクシーなら下車後坂道を徒歩約5分。

b)JR高崎駅西口から6km(高崎駅西口からN82degs.W 5.1km)、市内循環バス「ぐるりん」西口1番乗り場から少林山線乗附先回りで約20分終点「少林寺入り口」で下車し坂道を徒歩約5分。タクシーなら約15分、下車後坂道を徒歩約5分_

駐車場あり

c)JR高崎駅西口3番乗り場から群馬バス安中車庫行きを利用して「八幡大門前」で下車し、徒歩約10分_小_大人_

瑞雲閣にある寺務所は9:00-17:00_

寺院だから特に休日は決まっていなし、山内は閉門されないからいつでも散策できる。ただ展示室のある瑞雲閣は貸し会場でもあるから、何か大きな行事があれば見学できない場合もあるから、要照会_{16/11/03}

 

ブルーノ・タウト資料館_2010/8月に閉館_{11/07/31}