田野畑村民俗資料館

「小○のぼり」を押し立てて

(知への小さな旅;トップ→目次→歴史・考古→近世→)

近世へ   目次へ

 広大な岩手県の東北部、北上山地が太平洋に断崖となって落ち込む辺り、そこが田野畑村である。ここには北三陸海岸を代表する景勝地・北山崎や鵜の巣断崖がある。その豪快な海岸風景を観光するため、毎年多くの人が訪れる。

 だが道路網や鉄道が未整備だった昭和後期まで、田野畑村を含む北三陸沿岸と背後の北上山地の村々は、岩手県人からでさえ「陸の孤島」とか「岩手のチベット」などと呼ばれる不便な土地だった。田野畑村も陸の孤島という表現がぴったりの村だった。 

 ところが江戸末期にはこの村の住民が中核となり、周辺の沿岸部や山間地の住民を巻き込んで大規模な一揆が起った。しかも一揆勢は盛岡藩に対して最小の犠牲でほぼ完勝するという日本一揆史上稀有の成果を勝ち取った。当時この地方一帯は三閉伊(さんへい)通り(通りは藩の行政区画)と総称されていたので、一揆は三閉伊一揆と呼ばれる。

 現代人の感覚からすれば、自動車も鉄道も利用できない地域は社会的にも文化的にも後進地と見なされる。しかし交通手段が人間の足だけで、物資の運搬手段は牛の背だけ、情報の伝達は人々の直接対話を主とした時代なら、集落間連携の可能性は山また山の土地でも平地と大差なかった。

 その地に一揆発生の条件が整い有能なリーダーや策士がいれば、山間部の方がかえって隠密行動が取りやすく、事を進め易かったかもしれない。まず田野畑村での一揆発生の背景と事件の推移を概観してみよう。

 元来田野畑村は平地が極端に少なく、夏でも冷涼な北東風(ヤマセ)が度々吹くので稲作には向かない土地だった。地味が痩せているから畑作も振るわず、山地といっても立派な用材を産出するような山でもなかった。従って江戸中期まで住民は半農半漁の貧しい生活を送っていた。

 ところが江戸後期になると村内で砂鉄の採掘とたたら製鉄が盛んになり、製鉄用木炭の生産や牛による陸運も活発化した。海岸では塩釜による製塩業が発展し、マグロ・鮭・イワシなどの漁獲も多く、海産物干物の生産、特に海外交易品のあわび・フカヒレ・干しなまこなどの俵物やスルメ・昆布・魚油・魚肥などの生産が興隆した。これら産業は住民の生活を向上させた。

 この地方は江戸時代を通じて南部氏盛岡藩10万石の領域だった。盛岡藩は現在の岩手県中部以北と青森県東半分を合わせた広い領地を支配していた。ただ山地が多く、また領域にヤマセが吹いて二年に一度は飢饉が襲来するといわれた青森県東部や岩手県北部沿岸を含んでいたため、藩内の米収は意外に少なかった。

 領域全体がもっぱら雑穀を食する雑穀文化圏に属していたから、米本位制の時代、藩財政の基盤は北上川流域の年貢米に依存していた。鉱産資源や馬の飼育及び海産物の収入もある程度藩財政を補ったが、北上川流域の米作に長く過度に頼る傾向が続いた。

 江戸後期になると穀倉地帯に度々飢饉が襲い百姓一揆が頻発したから、藩では年貢米から必要な税収の確保は難しくなった。ちなみに江戸時代の一揆発生件数は盛岡藩が一番多かった。加えて鉱産物の収入も乱掘のため減少し、馬も太平の世となれば需要が減った。一方公儀のお手伝い普請の負担は重く、藩財政は次第に逼迫していった。

 さらに津軽藩に対抗意識を燃やす盛岡藩は、かねて藩主の官位昇進や家格10万石を倍増する高直し運動を幕府に願っていたが、それが領域不変のまま認められたのも裏目に出た。実質を伴わない格上げなのに幕府から20万石相応の働きを命じられ、蝦夷地警備などに多大の出費を強いられた。その結果藩財政は破綻寸前に追い込まれる。

 盛岡藩は歳入不足を補うため藩札七福神札を発行した。ところが始めから藩本位の無謀な運用のため、一年余の間に価値は百分の一に暴落し領民をひどく苦しめた。その間、藩主は贅沢三昧にふけり、一層の財政困窮を招いたという。この深刻な事態に対処するために採用された政策が産業立国論に基づく盛岡藩の天保の改革だった。

 この政策は内陸部米作地帯からの年貢収入に限界を認め、不足分を沿岸部の新興産業への課税で補填しようとしたものだった。考え方自体は尤もと思われるが、その実施方法の性急さと住民に対する配慮がまったく不足していたため三閉伊通りの上下民衆を憤激させた。

 すなわち課税対象を米作以外の新興産業分野へ向けたため、御用金は三閉伊通りへ傾斜的に重く課せられた。その御用金額は新興産業を根絶やしにしてしまうほどの巨額だった。さらに塩・鉄・海産物の生産流通に専売制や御用商人に一任する方式を採用していたが、それらを実施する過程でその横暴さが目立ち住民に辛い思いをさせた。

 従って三閉伊通りの領民の藩政への不満は全階層の民衆に高まり、一揆発生の機運が醸成された。この時期に一揆の必要性を説いて回り決起を促した人物が田野畑村切牛の弥五兵衛(万吉とも)だった。彼は牛方として領内の輸送業務に従事しながら粘り強く各村の人々を説得した。

 弥五兵衛の説得に賛同して行動を開始したのが安家(あっか)村の有力者忠太郎と俊作だった。特に俊作は一揆の戦略戦術面を担当し、巧妙な行動計画を策定した。こうして後世から三閉伊一揆と総称される前後二回の大一揆が始まった。

 一回目の一揆は1847年の暮れに起り弘化4年の一揆と呼ばれる。一揆勢は弥五兵衛をトップに据えて忠太郎・俊作を指導者として、三閉伊と周辺地域の領民が約12,000人参加したという。一揆勢は仙台藩領へ向かうと見せかけ急遽変針して南部一族の支配する遠野城下に至り、ここで強訴に及んだ。

 仙台領に向わなかった理由は一揆勢内の意思統一が不十分だったからとされる。それでも南部氏最有力の一族への強訴は藩庁を困惑させてその譲歩を引き出した。ところが盛岡藩はやがて一揆勢と取り交わした約定を破り、再び重税を課して来た。さらに弥五兵衛は捉えられて殺害され、忠太郎と俊作は下北半島の突端に流刑になった。

 この事態に直面した田野畑村の太助・喜蔵・倉治などは一揆の発起人になって1853年夏に二回目の蜂起をした。先ず田野畑村の人々数百人が行動を開始し、沿岸部の住民や領内各所の有志が続々と参集し人数は16,000人に達したという。その行動は前回一揆の方針に従って太助を総指揮者として組織的かつ整然と行われた。これが嘉永六年一揆である。

 一揆勢は途中険しい行路を通過して半数が仙台藩領に入った。彼らはここで3ヶ条の政治的要求と約49ヶ条に上る経済政策や地域行政上の要望を仙台藩に提出し盛岡藩への取り成しを願った。

 一揆側は盛岡藩が藩政を改めなければ、仙台藩の領民か天領の民になりたいとの意思表明もした。その後一揆勢は仙台藩の勧めで代表45人を残して帰郷し、残留した代表は仙台藩の仲立ちの下、盛岡藩と半年近い苦しい談判を続けている。

 仙台藩ばかりか、事もあろうに幕府までを巻き込みかねない一揆騒ぎは、盛岡藩の面目丸つぶれの上、藩の存続にも関わる重大事態だった。さらに談判が暗礁に乗り上げた時に一揆側は田野畑村の倉治をリーダーとして再蜂起した。ここに至り盛岡藩は一揆側の要求を大部分受け入れ、一揆側の処罰をしない約束をして事態打開を図った。

 一方、盛岡藩の痛手は大きかった。執政が身代没収の上蟄居、大目付や勘定奉行以下250人を超える藩士が解任されたという。その上、前藩主が幕府に領国支配の不手際を叱責されて謹慎を命じられた。1837年暮れに産ikki1業立国論に基づき、始まった盛岡藩ikki2の天保改革は無残な結果で終わった。

 田野畑村の「田野畑村民俗資料館」は三閉伊一揆に関する展示を中心にして運営されている。当館の側には一揆指導者の弥五兵衛と太助の像があるし(写真1参照)、当館の近くには太助の住居跡もある(写真2参照)

 雄大な海岸風景を眺めてからでも是非当館にも立寄るとよい。約160年前にこの村から始まった大規模な一揆は、それが黒船騒ぎの最中に起り、また辺境の地の出来事だったから一般には余り知られていない。でも自然度抜群の風景を見るのとはまったく異質な、当時の壮大で激烈な民衆行動を知れば、当地探訪の意義がより深まるに違いない。

近世へ

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

田野畑村民俗資料館_岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑128-9_TEL 0194-33-2210_三陸鉄道田野畑駅から5.3km(87degs.W 3.7km)、田野畑駅や鳥越駅から村民バスの便もあり「田野畑役場」下車徒歩10分だが本数は少ないからタクシー利用が便利_大人_中_9:00-16:30(16:00)_月曜日(休日に当たれば開館し、翌日休館)、祝日の翌日、12/28-1/4_{08/07/19}

(作成日: 08/08/07 、 更新日: )