角屋もてなしの文化美術館

 

煤けた広間に昔日の盛宴を想う

 

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 京都・西本願寺の西方、山陰本線(愛称 嵯峨野線)高架線の近くにかつて島原と通称された遊里があった。江戸幕府は1641年、京都町中にあった遊里を当時の町外れだった当地へ移転させ、それを京都で随一の所司代公認の遊里と定めた。これが島原の始まりだった。

 

 以来島原は公許の遊里、見方を変えれば「宴のもてなしを生業とする街」として発展した。そこでは連日連夜、公武のお偉ら方や豪商・文化人などが集って盛宴を繰り広げたのであろう。燭台の蝋燭や行燈の灯油などの油煙で一面が黒く煤けた広座敷は、昔日の華やかな盛宴の情景を想像させる。

 

 島原の正式な地名は西新屋敷といい、大体200m四方の土地の周囲を土塀と堀で囲み、初期には唯一つの出入り口として大門を設置し、内部は六つの町内に分かれていた。この街造りの形式はその後各地の花街や遊郭に踏襲されたという。

 

 そこには「遊宴のもてなしの場」である揚屋(あげや 料亭・大宴会場)や、太夫(たゆう)を頂点とした傾城(けいせい 接待をする公認の女性)や芸妓などを抱えて揚屋に派遣する置屋(おきや)、関係者の居住地などがあり独特な町を形成していた。

 

 しかし公許の遊里とはいえ、島原は元禄年間を過ぎる頃から次第に衰退してゆく。第一、島原は京都の町中から離れて不便だったし、格式を重んじて一見(いちげん)の客を取らず掛け売り制にこだわったこと、宴会費用か高く付いたことなどが響いたようだ。

 

 元来、太夫は歌舞管弦や茶道・書道・香道・華道など諸芸に堪能で、さらに和歌俳諧や古典文学などの素養に秀で、話術にも長けた傾城の最高位の人を指す。客はその高い素養や品格が醸し出す雰囲気と諸芸を楽しむために揚屋を利用した。しかし時代が下るに従い太夫らの品格も低下して評判を落としたともいわれる。

 

 実際上、そのような高尚で贅沢な遊びに大金を投じられる客は少ない。もっと手軽に安く遊べる快楽的な場所を求める一般人客層に揚屋遊びは向かなかった。当然、島原は京都町中の祇園・二条・北野その他各所に出来た私娼勢力に徐々に押されていった。

 

 ちなみに京都の島原と江戸の吉原は江戸時代の遊里としてよく知られているが、両者は色々な面で大きな違いがあった。島原の客間は広座敷であり庭に茶室も備えた割烹料亭的存在だった。一方、吉原は初期には揚屋もあったが、1780年以降は消滅し、以後は小部屋が続くいわゆる遊郭の建物となり、歌舞などの諸芸や茶席などとは無縁な世界になった。

 

町造りの面では両者は、共に四方を堀や土塀で囲み、単一の出入り口の大門を設けるなどの共通点も認められたが、吉原は遊郭であるから遊女の逃亡を防止するために閉鎖性がより強かった。

 

そして吉原では、新吉原時代から明治末までの236年間に28回も大火に見舞われている。その中には遊女が逃亡目的で放火した例も多かったという。これに対して島原では1854年に失火で東半部が焼失した以外、360年間放火による火災はなかったそうだ。

 

また島原では太夫などの傾城は置屋から揚屋への送り込み制を採用し、その行き来に供を引き連れて歩き、太夫の道中と称した。吉原では遊郭ごとに遊女を抱える居稼ぎ制だったから、道中は元々不必要なのだが、客寄せのために祭日などに花魁道中が行われた。

 

 島原の揚屋制度は経営的苦境に度々直面しながらも、江戸時代中には何とか維持された。1842年からは島原の堀や土塀も撤去され、歌舞音曲の観賞のため老弱男女が出入りする文化サロン的な要素も併せ持つに至り、そこでは和歌や俳諧の会合や茶会なども催された。

 

だが1854年島原東半分が焼失してからは一挙に衰退が進み、さらに明治維新後の東京遷都で揚屋の主要客筋だった公家や武士階級が転出して、京都の経済的沈下が著しくなると揚屋は廃業に追い込まれた。明治時代から島原はお茶屋業としての営業形態を採り1958年頃まで存続した。

 

 現在の島原には揚屋の角屋、置屋兼茶屋の輪違屋(わちがいや 前身は1688年創業の置屋養花楼)、島原の正面入り口の島原大門(しまばらおおもん)などが昔日の遺構として残っている。

 

 中でも江戸時代に最高級の格式を誇った揚屋の角屋(すみや)は、茶室を配した広い庭を前面にした大座敷や色々な意匠を施した広座敷、広い台所などが現存し、揚屋建築の遺構として殆どの建物と敷地が重要文化財に指定されている。

 

 角屋は島原移転時からの老舗で何度か拡張を行い、大型料亭としてほぼ現在の姿になったのは1787年という。久坂玄瑞・西郷隆盛・坂本竜馬など維新の志士や新撰組隊士たちも角屋を利用し、それぞれに足跡を残している。

 

明治5年以降は角屋もお茶屋業となり、一階の大座敷・松の間で宴会業務を営み、1985年まで営業した。その間、1925年に松の間で小火が発生したため、松の間だけは再建されている。

 

また先の大戦末期には鉄道線の空襲被害防止策として、沿線に近接する角屋は建物疎開対象となり取り壊される予定だったが、かろうじて免れた。これには西郷隆盛との縁が幸いしたという。

 

 今では角屋は「角屋もてなしの文化美術館」となって、建物内部の公開と関連文化財・美術品の展示をしている。屋内にはそれぞれ意匠を変えた何部屋もの広間、料理を作った広い台所などあり、揚屋の建築様式を理解できる。

 

 なお一般公開の範囲は一階の松の間と主庭、玄関や網代(あじろ)の間、台所などと、所蔵された美術品・什器備品及び文芸資料の展示室だ。展示室は時期により展示品を変えて特別展の形で公開されている。

 

また二階部分は緞子(どんす)の間、翆簾(みす)の間、扇の間、青貝の間、その他とそれぞれに異なった意匠を施した座敷があり、その参観は重要文化財建築物の保全のため、一階とは別扱いとして事前予約制の公開を採用している。

 

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(作成日: 14/05/20、 更新日: )

 

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_駐車場_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

角屋もてなしの文化美術館_京都市下京区西新屋敷揚屋町32 公益財団法人 角屋保存会_TEL 075-351-0024(受付は10〜17時)_

a)JR京都駅烏丸口から市バス205番「梅小路公園前」下車北西へ徒歩約10分、京都駅烏丸口から2.1km(N66degs.W 1.6km)

b)JR山陰本線(嵯峨野線)丹波橋駅から南へ千本通を徒歩約7分、駅から0.5km(N15degs.E 0.4km)(道中に卸売市場があって高架線下の千本通は時間によっては錯綜するので、丹波橋駅前から東に少し歩き卸売市場が終わった所で南へ向うとよい。その場合は0.75kmほどの歩きになる。)

c)阪急京都線四条大宮駅から市バス207,206番に乗って「島原口」下車西方へ徒歩10分_

駐車場 なし_中_大人_

(開館期間 3/15〜7/18 と 9/15〜12/15)の 10:00−16:00 _

開館期間の月曜日(祝日に当れば開館し翌日休館)、

休館期間(12/16〜3/14と7/19〜9/14)_

なお二階特別公開の座敷の見学は別途予約制_{17/05/02}