白瀬南極探検隊記念館、南極・北極科学館

後半生は借金と戦った探検家

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 日本が経済的に発展し、交通手段も飛躍的な進歩を遂げて地球が狭く感じる現代なら、探検や冒険といった行為もそう珍しくない。だが日本がまだ発展途上国の段階にあった明治末期、欧米先進国に伍して極地探検を実行した人がいた。その人は白瀬矗(しらせ・のぶ 1861-1946)、通称白瀬中尉だった。

 彼は若い時から北極探検を志し、陸軍を除隊後に郡司成忠の千島探検へ参加し、同地で過酷な越冬体験を積んだ。だが北極点初制覇の夢は1909年、米人ピアリーの成功で挫折し、代わりに南極を目指すことになった。ちなみに彼とほぼ同時期に南極へ向かい、南極点に初めて到達したアムンゼンも北極探検からの転向組だった。

 南極探検の準備に入った白瀬は資金不足のため希望の船を入手できなかった。やむなく約200トンのサケ漁船を耐氷補強して使うことにした。それは木造三本マストの帆船で、わずか18馬力の補助機関を付けた船だった。この船は東郷元帥によって開南丸と命名され、白瀬は1910年(明治43年)に27人の隊員と日本をたった。

 白瀬隊は途中オーストラリアでスパイ船と疑われ一時足止めされたり、また連れて行ったカラフト犬を寄生虫病で失い、その補充にも貴重な時間を空費した。ようやく態勢を立て直して南極ロス海に到着したのは1912年1月だった。直ちに白瀬と武田学術部長ら5名の突進隊は南極点を目指して進んだ。

 図らずも、その一ヶ月半ほど前に、当時の超大国・英国がその威信をかけて派遣したスコット隊や、寒冷地に慣れたアムンゼン隊が南極圏に入っていた。白瀬隊は資金・船・装備のいずれを採っても彼らに劣る貧弱な態勢で南極に挑むことになった。

 スコット隊は当時の最高水準の装備を整えたはずだったが、選択したルートは実際には障害の多いものだった。さらに食料や装備にも問題点を持っていた。それでも苦難の末、ようやく南極点に到達したら、そこにはアムンゼン隊の4週間前の足跡があった。アムンゼンの南極点到達日は1911年12月14日だった。

 アムンゼン隊の採ったルートは幸運にも比較的平坦だった。天候にも恵まれ、軽快な犬ソリを駆使して一日平均30kmも進んで一番乗りを果たした。遅れたスコット隊は意気消沈で進度が鈍った。また帰路遭遇した悪天候で足止めされ、食料や燃料を消費し尽くし、南極点へ到達した全員が亡くなった。物資保管場所の18キロほど手前だった。

 スコット隊は少数の犬と馬(ポニー)を連れて行ったし、ディーゼルエンジン搭載の雪上車(動力牽引そり)もあった。だが、そのいずれも役立たず、最終的には重いソリを人が引っ張る羽目に陥り、体力の消耗を速めた。さらに缶詰の多くが腐敗して食べられなかったのも不運だった。

 白瀬は隊員募集に際して係累の少ない人を条件としたそうだが、もっともな話だ。結局、一番遅く現地入りした白瀬隊は悪天候に進路を阻まれ、装備や食料の制約から南緯80度05分、西経156度37分までしか進めず、そこを大和雪原(やまとゆきはら)と命名して引返した。そこは大陸棚氷上であることが現在では判明している。南進を断念した日は1912年1月28日だった。

 南極制覇のため三隊が採ったルートは、大局的に見れば大体同じだったが、そのルートと時期の多少の違いや装備の適否が明暗を分けた。事実、開南丸はアムンゼンのフラム号とも調査活動中に遭遇して隊員が交歓している。

 白瀬は単に南極点を目指したのではなく、南極圏の学術調査にも努め、それらの記録も残している。彼は帰路、食料不足のため、カラフト犬を置き去りにしたのを長く悔やんでいたそうだ。戦後の南極観測隊も緊急避難の際、同じことをしたがその犬たちの内で2匹は翌年まで生きていた。

 半年後、白瀬隊は全員無事で帰国した盛大な迎えを受けた。しかし当時の日本は日露戦争で勝利したとはいえ、国力も乏しく国民の文化レベルも一時的な興味以上のものではなかったのだろう。大隈重信や新聞社が後援したにしても、この種の探検活動を支え、その成果を活かして行くだけの基盤はなかった。

 当てにしていた国の援助も結局出ず、帰国時51才だった彼には莫大な借金が残った。それは現在の金額で1〜2億円と換算されている。そのため白瀬は後半生を借金返済のために国内各地を講演などで転々とする生活を送り、1946年埼玉県で寂しく亡くなった。

 日本は敗戦の結果、南極に関するすべての発言権を放棄させられた。しかし、1956年、地球観測年の一環として南極観測が計画され、日本も第一次南極観測隊を派遣し、翌年には昭和基地を開設した。また1959年には南極条約が初めて調印されたが、日本はその調印12ヵ国の一つになった。

日本の再登場が早期に実現したのも、先覚者の実績があったからだろう。秋田県南西部の金浦(このうら)町は彼の故郷で、そこに「白瀬南極探検隊記念館」が造られた。館内はプロローグゾーン、白瀬矗南極探検隊ゾーン、南極ゾーン、オーロラドームに分かれている。

 白瀬ゾーンには突進隊使用のテント・防寒服・靴・寝袋なとの本物やレプリカが並んでいる。また白瀬や野村船長の手紙や書類、スケッチなども展示されている。南極ゾーンには戦後の観測隊が持ち帰った岩石や地衣類などの標本がある。

 岩石は片摩岩など変成岩が多く、この大陸の地質学的な古さを実感させられる。現在の南極大陸には、地衣類や蘚苔類がわずかな分布するだけだが、石炭の標本は太古に暖かい環境があったことを示している。館内には戦後の観測活動で南極点まで行った大きな雪上車も保管されている。またアラスカ大学提供のオーロラ映像も上演されている。

 当館の下に広がる竹嶋潟の湖畔には南極広場が造られ、そこに復元された開南丸が据付けられ、氷山をイメージして建てられた当館の方向へ、へさきを向けている。その有様はあたかも白瀬隊の執念を表すように見える。

 白瀬隊の探検から一世紀、南極観測のための昭和基地開設から半世紀を経過した現代、日本の南極研究は昭和基地をベースとして活発に行なわれている。それは白瀬隊当時とは比べられない大きな国力と学術水準、また著しく進歩した観測手段や移動手段により、連続的かつ精緻に遂行されている。

 東京の西部・立川市には大学共同利用機関・国立極地研究所がある。この研究所は極地に関する科学の総合的研究や極地観測の実施を目的としている。ここに「南極・北極科学館」が付設され、極地観測の成果紹介と観測機材などの実物展示をしている。

 nankyoku_NEWその展示は歴史、昭和基地、大気・氷、オーロラ、岩石・隕石、生物などのコーナーに分かれている。そこには南極探査に活躍した雪上車もあり、内部も見られる(写真参照)。また昭和基地の下にある分厚い氷床を地下3035.2mまでボーリングして、72万年前までの氷床コアを採取した高性能ドリル、上空から南極を広範囲に調べた無人飛行機なども保存されている。

 このようにして近年、極地研究は著しく進展し、地球科学・環境科学・太陽系科学・生物化学などの幅広い分野の総合的な成果を得ている。今や極地はこれら諸科学に関する貴重な研究場所として貴重な存在という。

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(作成日: 02/05/06 更新日: 11/10/23)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

白瀬南極探検隊記念館_秋田県にかほ市黒川字岩潟15-3_0184-38-3765_

a)JR羽越線金浦(このうら)駅から 2km(20deg.E 1.5km)徒歩26分、タクシーあり。

b)バスなら金浦駅前角から羽後交通・本庄象潟線を利用し、「白瀬記念館入口」下車後徒歩3(本庄営業所行きと象潟駅行きでは下車したバス停の位置が異なるので案内看板をよく注意)_

駐車場 普通車20台、障害者用2台_中_大人子供_

9:00-17:00(16:30)_

月曜日(祝日に当たれば開館し、翌平日休館)12/291/3_{17/03/10}

 

南極・北極科学館_東京都立川市緑町10-3  国立極地研究所敷地内_042-512-0910_

a)  多摩都市モノレール高松駅下車700m(59degs.W 400m)徒歩10

b)  JR中央線立川駅北口から徒歩で北へ昭和公園の入り口前を通って約2km 26分ほど、タクシーあり。

c)  JR中央線立川駅北口2番乗り場から立川バス「大山団地方面行き」に乗車し、「立川学術プラザ」下車徒歩1

d)  JR中央線北口1番乗り場から立川バスを利用して、立川市役所下車徒歩5

e)  JR中央線北口乗り場から「きたくるりんバス」を利用して、裁判所前または立川市役所前下車徒歩5分_

駐車場 同一敷地内の国立極地研究所の駐車場利用_中_大人・子供_

10:00-17:00(16:30)_

日曜日・月曜日・祝日12/281/4_{17/03/10}