品川歴史館

旅人と送迎行楽客で繁盛した宿場

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参照(のり・大森貝塚) 

 東京南部の品川には「品川区立品川歴史館」がある。ここは中世には品川湊が造られ、東京湾最奥部の重要な湊として栄えていた。戦国時代にはすでに宿場集落ができていたようだ。

 関ヶ原の戦いの翌年(1601年)には早くも東海道五十三次が定められたが、品川宿はその第一番目の宿場となった。その位置は現在の品川駅南方約800メートルの目黒川を挟んだ土地だった

 東海道は連日数千の人が通過したという。西国から江戸を目指す旅人は品川宿で江戸に入る準備や旅の休養を取った。また江戸から西上する旅人にとって、ここは最初の宿場であり、日本橋から約7キロの近距離なので送迎客もここまでやってきた。

 その上、品川は美しい遠浅の海と、桜や紅葉の名所で知られる景勝地だった。前面の海は漁業やノリの養殖が盛んで、新鮮な魚介類にも恵まれた。さらに近郷で採れるタケノコ・ねぎ・ニンジンなどの農産物も特産物として知られていた。そのため品川には花見・紅葉狩り・月見・潮干狩りなどの行楽客、味覚を求めて来訪する人々も多かった。

 品川の漁業は江戸初期に幕府が上方から漁夫を移住させてから本格化している。農業は当初、用水不足に悩んだが、品川用水が開削されてからは水田も増え、また江戸という大消費地を控えて、そ菜類の栽培や麦作が盛んに行われた。たけのこの栽培も江戸中期に始まっている。

 街道交通の発展や行楽習慣の定着で品川宿は発展し、目黒川を挟んで南品川宿と北品川宿が、さらに歩行(かち)新宿の三宿が出来上がり、それら三宿の町並みはつながって2キロ以上も続いていた。町内には本陣・旅籠屋・木賃宿などの宿泊施設のほか、水茶屋・飲食店・みやげ物屋などが多数できて遊興客や行楽客で繁盛したという。

 館内には幕末の宿場模型が展示され、当時の様子の一端をうかがい知れる。しかし幕末になると、江戸防衛用の品川台場建設用土を品川・御殿山から採取する大工事が行われ、また御殿山の外国公使館建設をめぐる尊攘派の騒動や百姓一揆などで宿場は騒然とした雰囲気になっていった。

 明治五年に鉄道の出現すると、ほどなく宿場はなくなり、低地はガラスや煉瓦、豆電球などの、大小各種の工場地帯に、台地は住宅地に変わった。江戸中期に日本最初に始まったノリの養殖地も戦後に大東京港の造成や埋立で消滅してしまった。

 また当館のもう一つの目玉は米人モース氏関係の展示である。彼は1877年(明治10年)東京に向かう車窓から大森貝塚を発見し、それを発掘している。貝塚のあった所は現在の京浜東北線の線路ぎわ切取部だったから、後の線路増設によってその現場は失われてしまった。そのため近くの台地上に大森貝塚庭園が造成されている。

 なお大森貝塚に関する展示は太田区立郷土博物館にもある。貝塚は若干の広がりを持っているし、偶然この辺りは品川区と大田区の境界地だったからだ。両館の展示を見ると、その位置を巡り両区の間で本家争いの気配があったようだ。いずれにせよ大森貝塚発見と発掘は日本考古学のスタートとなった業績なのは間違いない。

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(作成日: 01/03/17、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

品川歴史館_東京都品川区大井6-11-1_TEL 03-3777-4060_

a)JR京浜東北線大森駅山王北口から0.9km(15deg.E 0.8km)徒歩12分、

b)バスならJR京浜東北線・東急大井町線・りんかい線の大井町駅西口から東急バス池上駅行き(09)または蒲田駅行き(94,井03)を利用し「鹿島神社前」下車後徒歩1分_

駐車場 普通車3台だが、障害者優先なので、できるだけ公共交通機関の利用を推奨_中_大人子供_

9:00-17:00(16:30)_

月曜日、祝日(祝日が日曜日と重なった場合は開館する。もし祝日が月曜日と重なった場合はその月曜日翌火曜日が休館)、年末年始、展示替え・資料変え・くん蒸などの臨時休館あり_{17/03/10}