八甲田山雪中行軍遭難資料館

猛吹雪に巻き込まれた行軍の悲劇

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山岳小説家新田次郎の代表作「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」は、厳寒期の八甲田山系で実際に起きた悲劇を題材にしている。この事件はテレビでも放映されたのでご存知の方も多いと思われるが、参考までにその概要を説明しておこう。

 

 それは1902年(明治35年)1月23日から26日までの出来事だった。当時の日本は大国帝政ロシアと開戦直前の状況にあり、軍部は戦争準備に奔走していた。青森の歩兵第五聯隊は、日露が開戦すればロシア艦隊が津軽海峡や陸奥湾を封鎖し、八戸平野にロシア軍が上陸する事態を想定し、その対抗戦略を検討していた。

 

 この事態での難問は、冬季に沿岸部の鉄道や道路が艦砲射撃で破壊された場合の支援ルートの確保だった。この場合、残るルートは雪中の八甲田越えしかなく、それは大変な困難が予想された。そこで部隊を派遣して耐寒訓練と共に雪中行軍の可能性、必要装備、兵士の体力維持策、軍需物資の輸送法などを実地確認することになった。

 

 行軍部隊が青森市内の兵営を出発したのは、1月23日朝だった。部隊編成は軍需物資を運搬するソリ隊も含めて総勢210名であった。行軍は八甲田山中の田代に一泊して三本木へ向うが、もし気象条件が悪ければ途中で雪中露営をしてから田代に向う計画だった。ところが山道に入った昼頃から強い寒波が襲来して、天候は急変し猛吹雪になった。

 

坂道にかかってからソリ隊の進行は難渋していたが、やがて進行困難になった。新雪が深く積もった坂道ではソリは役に立たず、結局ソリを放棄して兵士が物資を背負って運ぶ羽目に陥った。また先行させた設営隊は視界が利かぬまま道に迷い、隊の後方に戻ってしまう事態が発生した。

 

結局待っていたのは、零下20度以下の極寒と強い暴風雪の吹きすさぶ山中での露営だった。持参した握り飯は硬く凍って歯が立たなかった。炊飯用のかまどは深い積雪のために地面に築けず、やむなく積雪上に造って炊飯したが、当然ながら鍋が傾いてうまく炊けなかった。また酒を温めても変質して飲めないなどと、食事は散々な有様だった。

 

まともな食事も取れず、凍傷や凍死を防ぐために深く眠ることも許されないために弱った体で、異常寒波の中を前進することに将校たちは危惧を抱いた。そして見習い士官や下士官など血気にはやる若い隊員の突き上げに当惑しながらも、彼らは速やかな撤退を決め、予定を早めて24日未明に露営地を出発した。

 

だが猛吹雪と暗闇の中の行軍で部隊は進路を再三誤り、結果的には田代平(たしろたい)の中をさまよい回っただけだった。空腹と極寒での行軍は隊員の体力を奪い、凍傷や睡魔に襲われた隊員は次々に倒れた。また寒さで手指の自由が利かず谷間に転落した者もいた。この行軍で隊員の1/3を失い、二日目の露営地にたどり着けた隊員は約140名程度だった。

 

翌25日朝、体力がまだ残っている隊員を募って二手に分け、撤退ルートの探索をさせた。昼頃帰路発見の報を受け行軍を開始したが、すでに遅かった。食料も燃料もない状態では行くほどに落伍者が続出し、隊形は崩れて隊員はばらばらになった。25日夜半の残存隊員数は30名、その内元気な者は半分程度だったという。

 

 26日昼頃には再び天候が悪化したので、やむなく隊員を二手に分けて別々の帰路を採らせ、片方だけでも生還を図ることにしたのだが、結局双方とも隊員の殆どが倒れてしまった。救援隊は27日10時に青森駅から南西方向に直線距離約16kmの大滝平で、雪中に仮死状態で直立していた後藤伍長を見付けた。

 

応急措置を受けて蘇生した後藤伍長の話から部隊の惨状が判明した。また近くで神成中隊長を発見したが蘇生しなかった。だが腰まで埋まる新雪では救難活動は出来ず二次遭難も懸念された。救援隊は一旦態勢固めのために救援基地へ引き返し、翌28日から大規模救助活動が開始された。

 

その結果、17名が救助された。だが生還者の内6名は治療中に死亡し、結局退院できた者は手足が健全な3名と、凍傷のため手足に重篤な損傷を受けた8名だけだった。遺体探索は難航し、最後の遺体は5月28日にようやく収容された。この惨状は寒暖や環境に著しい違いはあるが、第二次大戦下の南方戦線での転進と似通っている。

 

 行軍は記録的な大寒波の中、不充分な装備と不適切な糧食、役立たなかった輸送手段を用い、案内人の起用もせず地元古老の助言も無視して強行された。行軍の数日前に行程の途中まで予行演習をしたが、その時は天候に恵まれて無事だったので、冬山の危険性をやや甘く見たのかも知れない。結局、行軍者210人中199人が凍死する大惨事になった。

 

青森聯隊の行軍とほぼ同じ頃、弘前第31聯隊の八甲田山系雪中行軍が別ルートから行軍していた。彼らは疲労困憊ながらも予定の行程を通り全員が生還した。弘前隊は行軍中に青森隊の遺体を二体発見し、放置された武器も回収している。

 

両者の比較論は色々なされているが、両隊の行軍は別個に計画され、目的も異なり、隊員の雪山に対する経験も違っていた。また両隊の登山口が八甲田山系の北側と西側と異なっていたが、同じ山系でも青森側の方が地理sohnann的条件から降雪量が多かったと思われる。

 

青森市から八甲田山へ向う国道40号線沿いの青森市幸畑(こうはた)には幸畑旧陸軍墓地があり、行軍遭難者の墓が整然と並んでいる(写真参照)。地元住民は捜索活動を手伝った縁で墓地の傍に小さな資料館を造り長い間守ってきたが、住民の高齢化もあり維持困難になった。それを青森市が引き受け「青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館」として改装開館した。

 

当館は当時の世界情勢の解説から、行軍の計画とその経過、使用した装備とその問題点、両隊の経路、捜索活動、生存者の治療などと、その全体像を遺品展示と共に紹介している。この悲劇を教訓にして携帯食料や装備、輸送手段など、改善された事項も多かったであろうが、反面、軍上層部の責任論や遭難者見舞金の階級格差批判などの問題が提起された。

なお筆者はまだ行っていないが、この雪中行軍遭難資料や遺品は青森市内の陸上自衛隊青森駐屯地防衛館(TEL 017-781-0161 内493)にも保管展示されている。

戦争へ   文頭へ (作成日; 10/10/28、 更新日 )

 

 (施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館_青森市幸畑字阿部野163-4_TEL 017-728-7063_

a) JR青森駅から約7.8km(48degs. 6.8km)、駅前市営バス3番乗り場から田茂木野行きや田茂木沢行きなどを利用し約30分「幸畑墓地前」下車

b) JR青森駅前市営バス3番乗り場から幸畑団地行きまたは横内環状線(筒井経由)の青森駅行きを利用し約30分、「幸畑」下車後徒歩10分_

駐車場 普通車 43台_中_大人_

9:00-18:00(410)

9;00-16;30(113)_

12/311/1、2月の第4水・木曜日_{17/03/06}