宗吾霊宝殿・宗吾御一代記念館

直訴は天下のこ法度

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 時代劇では直訴とか、かご訴をする場面がよく出てくるが、本当にこれを実行したと伝えられる人物がいた。佐倉宗吾、その本名を木内(きのうち)惣五郎といい、印旛沼の近くに住んでいた名字帶刀の大庄屋だった。当時この地は佐倉藩領に属し、堀田家が支配していた。

藩主の正信は若年で、しかも江戸在府が多く、国元の政治は国家老に任せていた。国家老一派は悪政を行い、いろんな名目を付けて重税を課した。それに折からの飢饉が加わり、農民は極限まで困窮化し、流民化する者や餓死する者が続出した。檀家を失った寺が相次いでつぶれたというからこれは事実だったのだろう。

 追い詰められて一揆に立ち上がる農民を立場上、直前で阻止した彼は、農民の代わりに藩庁へ租税軽減を願い出るが、元より聞き入れられるはずがない。やむなく領内の殆どの名主を引き連れて江戸藩邸へ嘆願に行くが、ここでも門前払い同様に扱われる。

 藩に嘆願するのが無意味と悟った彼は、名主代表五名と共に将軍側用人久世大和守へかご訴する。幸い訴状は受取られたが、後日その心情は分かるが他藩の事柄なのでと返却されてしまう。結局、最後手段として、彼が代表して将軍へ直訴を行い、訴状は将軍後見職・保科正之に受取られた。

 幕府はそれを検討の結果、佐倉藩に租税軽減の指示が出され、幕府の救援も行われたという。目的は達せられたものの、佐倉藩へ身柄を引き渡された彼は、藩の面目を潰した大悪人として家財没収の上、はりつけになる。幼女も含めて子供たちは死罪という悲惨な運命をたどった。

 これは1653年の出来事と伝えられる。この事件は歌舞伎や講談の格好の題材となり、佐倉義民伝として今日でも演じられる。彼は罪人として処刑されたので、その資料や手掛かりは抹殺されて少なく、また後世の脚色も多いから、将軍への直訴の有無を含めて、その実像には不明確な点が多いとされている。

 しかし騒動は実際に起こったし、彼が大百姓で指導的な人物だったこと、処刑されたことは事実だったのだろう。また彼の娘で、幸い他藩領へ嫁入りしたため難を免れた人が、後に藩から土地を与えられて家を再興していたという。

 その堀田家はほどなく断絶したが、同姓の一族が後年、当地に封ぜられた。そして彼に宗吾という贈り名をしたので、佐倉宗吾と呼ばれるようになった。その措置はたたりを恐れたか、一族の家名に響くと考えてか、失政の事実を認めてか、あるいは領民の心をつかむためだったのかは筆者には分らない。

 彼の墓のある宗吾霊堂には「宗吾霊宝殿・宗吾御一代記念館」が併設され、彼や家族の遺品を展示している。また記念館には彼の生涯の代表的な場面が人形6618場面で紹介されている。

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(作成日: 99/11/28、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

宗吾霊宝殿・宗吾御一代記念館_千葉県成田市宗吾1-558 東勝寺境内_TEL 0476-27-31310476-27-3132(宗吾霊堂信徒部)

a)  京成電鉄の宗吾参道駅から1.2km(5deg.W 1.0km)徒歩16分、タクシーあり。

b)  京成電鉄成田駅中央口7番バス乗り場から「甚平衛渡し行き」で約15分「宗吾霊堂」下車、タクシーあり。

c)  成田市役所前バス停から成田市コミュニティバス北須賀ルートを利用し「宗吾霊堂」下車。

d)  京成線公津の杜(こうづのもり)駅から1.4km、バスもあるが本数は少ない。_

駐車場あり_小_大人_

8:30-16:00_

月曜日(当日が祝日に当たれば開館し、翌日休館)_{17/02/28}