堺市博物館

自由都市堺の姿を紹介する

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 堺市にある巨大な仁徳陵古墳、正しくは百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)といい、別名は大山(たいせん)陵あるいは大仙(たいせん)陵と呼ばれている。これに隣接する広い大仙公園の中に「堺市博物館」が設置されている。

 当館は堺の歴史を時代順に紹介しているが、中でも世界三大墳墓の一つに数えられる仁徳陵と、中世から近世にかけて商業で飛躍した自由都市・堺の資料を中心に構成している。

 当地は古い時代から西国との交通の便に恵まれ、飛鳥の都への入り口でもあった。また難波宮(なにわのみや)や難波津と呼ばれた古代の大阪にも近かった。そのため渡来人の定住も多く、大陸文化に早くから接触できた先進地域だった。

 古墳時代には巨大な大仙陵のほか、その周辺の台地上には大小100基以上の古墳が築かれ、その内46基が現存している。これらの古墳は4世紀後半から6世紀前半に造られたもので、百舌鳥(もず)古墳群と名付けらteppouれた。中でも大仙陵は周囲に三重の濠をめぐらした一周約2.kmもある大きな前方後円墳だった。

 律令時代には、最初の大僧正となった行基が、その土木技術によって灌漑施設・道・橋・堤防などを造り、また社会事業も行って全国各地にその足跡を残したが、彼は当地出身だった。

 中世から戦国時代の堺は応仁の乱で衰えた京都に代わる物資の集散地となり、また南蛮貿易によって巨万の富を蓄えた自由貿易都市であった。さらに戦国から近世初頭の堺は鉄炮の大生産地でもあり、鉄炮鍛冶がたくさん居住していた。今でも鉄炮を造った旧鉄炮屋敷が残っている(写真参照)

 最盛期には町の周囲には濠を回らして武装し、また周囲の軍事勢力へ軍資金を提供してその支配を排除し、納屋衆が支配する自冶都市でもあった。しかし信長や秀吉の力に屈した段階で自冶体制は終わった。その頃の町の規模は南北約3km、東西約1kmだった。

 江戸初期には自由貿易の代わりに生糸貿易の特権商人として一定の地位を保っていたが、やがて鎖国令の強化と大阪の発展、国内繊維需要の変化、及び18世紀初頭の大和川下流部の付け替え事業の結果、港湾都市や商業都市としての役割は衰退した。

 さらに太平の世になれば鉄炮の需要は減り、当地の鉄炮鍛冶は包丁などの金属製品の加工業へ転換している。また木綿織物や食品加工などの各種の手工業による加工業が発達して、堺は京都と並ぶ産業都市に変っていった。

 このように戦国時代から江戸時代にかけての町の変ぼうから、自由都市として、また国際都市として名を知られた堺が、いかに発展し衰えていったかを理解することができる。なお明治時代には堺段通とよばれる敷物が盛んに織られた。

 民俗行事のコーナーでは百舌鳥(もず)八幡宮の月見祭の神輿、通称ふとん太鼓(太鼓台)が目に付く。ふとん太鼓とは赤い座ぶとんを五枚重ねたように見える飾り物を太鼓台上に載せたものだ。布団の上は神様のご座所という意味だ。

 各町内では大小一つずつを持っており、大きいものは重さ3トン、高さ4メートルもあって、70ないし80人で担ぐそうだ。この行事は堺では大正初年に始まったそうで、それ程古くはないし、またふとんを載せたお神輿自体も津山など西国各地で見られるようだ。

rikyuh 当館には日本庭園が併設されており、奈良県今井町にあった江戸時代の茶室も移築保存されている。この庭園には1306年の年号が刻まれた重要文化財の九重の石塔も保存されている。なお堺といえば茶道を大成した千利休の出身地であり、市内には彼の屋敷跡があるし(写真参照)、そのごく近くには与謝野晶子の生家跡の碑も建っている。

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(作成日: 00/05/07、 更新日: 02/08/13)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

堺市博物館_大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲(もずせきうん)町2丁 大仙(だいせん)公園内_TEL 072-245-6201(学芸課)_

JR阪和線・関西空港線百舌鳥(もず)駅から0.6km(80deg.W 0.4km)徒歩8分_

大仙公園仁徳御陵駐車場(TEL 072-241-1740)利用 有料 普通車108台_中_大人_

9:30-17:15(16:30)_

月曜日(祝・休日に当たれば開館)、年末年始_{17/03/02}