大阪城天守閣

徳川の城地に建つ折衷の天守閣

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 大阪のシンボル・大坂城。その昔、豊臣秀吉はここから天下に号令した。この地には一六世紀前半に石山本願寺が本拠地を構え、堀をめぐらし城塞化していた。これを天下布武を唱える織田軍が包囲し、10年を超える対峙の末に講和開城させた。

 ほどなく起こった本能寺の変後、信長の遺領の大部分を掌握した秀吉は、1583年ここに築城を開始した。ただその築城工事はまだ彼の天下統一過程で行われたためか、石山本願寺時代の郭(くるわ)の大部分をそのまま活用した点でやや促成的な造成だった。

それでも黒漆と灰色漆喰塗りの外壁に金箔の飾り板を配した美麗な五重の天守閣を建造し、外郭も造成した総ぐるわ式の巨大な城になった。1585年には主要部分はほぼ完成していたといわれる。だが1615年の大坂夏の陣でこの豊臣時代の大坂城は炎上してしまった。

豊臣氏に代わって天下を握った徳川氏は1619年に天下普請を行い、大坂城を再建した。その際、豊臣時代の城の石垣は破壊し堀も埋め、その上に約10mも盛り土をしたという。そして新しく縄張りをして城を造営し、より高い石垣を築き深い堀を備えた。

従って今見られる堀や巨石を使った石垣はすべて徳川時代の遺構だ。豊臣時代の石垣はボーリング調査によって地中深くにその存在を部分的に確認できるだけだ。ただ城の範囲は豊臣時代の方が四倍も広かった。秀吉の城は天下支配用だったが、徳川の城は西日本統治の拠点だったからだ。

徳川の大坂城は城域こそ縮小されたが、構えはより強固になった。その白漆喰塗り五重の天守閣は豊臣時代のそれより一回り大きく、位置を南東に約100mもずらして建てられた。この天守閣も1665年には早くも落雷で焼失している。

大阪城のその他の部分も1868年の維新時に失火でほとんど焼失した。わずかに焼け残osakacslった建造物は空襲により終戦間際に炎上し、今日残存している若干の櫓や城門・火薬庫などは重要文化財に指定されている。

 1931年には、関大阪市長は市民の寄付を募って鉄骨鉄筋コンクリート造の「大阪城天守閣」が再建され、歴史博物館として利用された。再建された天守閣の様式は1〜4層は徳川氏の様式で最上層は豊臣時代の様式を採用した折衷形という。そして今では再建された天守閣自体が国の登録有形文化財に登録されている(写真参照)

 当館では秀吉の生涯と彼が生きた時代を紹介し、その関係資料を展示すると共に、歴代の大坂城の説明、大坂夏の陣における城下民衆の苦難の紹介、安土桃山時代の美術工芸品や武具及び秀吉の金の茶室の原寸模型などの展示をしている。

 大阪屈指の観光スポットである大阪城公園は今では外国人、殊に東アジアの観光客が多数来訪し、国際色豊かな場所になっている。大陸攻略を目指して朝鮮半島に大軍を侵攻させ異国の民衆を散々苦しめた秀吉も、あの世で自身の下した判断に舌打ちをしているだろう。

 ところで京都府伏見市は寺田屋事件や銘酒の産地として知られる。この町はかって短期間だったが、日本の政治権力の中心として機能した。それは豊臣秀吉が関白職を甥の秀次へ譲って太閤となり、隠居所として伏見に大規模な城を築いた時だった。

 太閤になったとはいえ秀吉は実権を握っていたから、諸大名や大商人たちは続々と伏見に屋敷を構えた。従ってここは大坂城とはまた違った意味で天下の中心だったが、以後大阪のような激烈な戦災や近代化の影響を受けなかったから、当時の名残は今でも当地の地名に数多く残っている。

 その例を庶民の町に求めると、小豆屋町・石屋町・魚屋町・海老屋町・御駕籠町・帯屋町・鍛治屋町・革屋町・紺屋町・指物町・瀬戸物町・車町・塩屋町・鷹匠町・納屋町・西浜町・風呂屋町・本材木町・枡屋町・両替町その他である。

 これに類似する地名は全国各地の城下町にも使われているが、伏見ではその種類が多い。だが、以下の地名は天下様のお膝元ゆえのものと思われる。すなわち丹後町・讃岐町・肥後町・周防町・片桐町・島津町・毛利町・鍋島町・景勝町・冶部町などだ。西奉行町・奉行前町などは江戸時代の伏見奉行所に由来するのだろうか。

 さらに桃山井伊掃部東町・桃山筒井伊賀東町・桃山長岡越中東町・桃山羽柴長吉中町・桃山福島大夫西町・桃山水野左近東町・桃山毛利長門東町なともある。また桃山町板倉周防・桃山町因幡・桃山町金森出雲・桃山町島津・桃山町本多上野・桃山町伊賀・桃山町三河・桃山町松平筑前その他と念の入ったものもある。

 もちろん、桃山という地名自体が伏見城の廃城以降に発生したものだから、これらの地名も後世のものだが、それでもその由来は想像できる。また反対に以前あった町名が、区画整理や町名の統合などで消失したものもある。例えば仙台屋敷町・越後屋敷町・出羽屋敷町のたぐいだ。

 これらの地名はいずれも天下人・秀吉の威光を今に伝えているが、当然のことながら伏見城も当時の建築技術や美術工芸の粋を結集して建てられたに違いない。その規模は大きく、連立式天守閣の大きい方は大体、名古屋城天守閣と同じ大きさと推定されている。その建築途上で大地震に見舞われながらも、城全体は1595年に完成している。

 しかし、程なく98年に秀吉は没し、城は関ヶ原合戦の前哨戦で1600年に炎上してしまった。その後、伏見城は家康によって軍事拠点として改造再建されたが、それも1622年には廃城になった。城跡には桃が植えられ、付近一帯は桃山と呼ばれるようになった。これが秀吉治世の時代を意味する桃山時代の語源となったのだから皮肉なものだ。

 なお伏見城が廃城になった折、建物や部材は大名や寺社へ払い下げられ、各地へ移築された。そのため遺構は各地に残っており、国宝や重要文化財に指定されている。城なら江戸城や福山城の伏見櫓、福山城の筋鉄御門などである。

 門なら伏見の御香宮(ごこうぐう)神社の表門はかっての大手門だったし、京都の豊国神社には唐門が移築されている。さらに俵屋宗達のふすま絵などで有名な京都の養源院、そこには城が炎上した時に自害した城方の血痕の付着した床板が天井に再利用されており、桃山の血天井として知られる。

 かって天守閣のあったところは今では明治天皇の御陵になっているが、その北側の城跡内に戦後、天守閣再建が計画された。けれども秀吉の建てた天守閣の設計図書が残っておらず、やむなく当時描かれた洛中洛外図を参考にして模擬的な天守閣が造られ、その内部は桃山文化史館になっていた。

 当館では桃山時代に焦点を合わせて、その風俗や芸術、その主役の秀吉の生涯、伏見城や伏見の町などを紹介していた。また秀吉が造らせた黄金の茶室も復元され、秀吉と千利休の茶の湯をめぐる関係なども解説されていた。

 信長と秀吉が君臨した時代はわずか30年余だったが、その間に長い戦乱の世が終わり、日本の政治・社会・文化に大きな変革が起こった。そこには豪放かつ華麗な気風が形成され、南蛮文化の影響も受けて独自の動的な文化が花開いた。当館では当時の風俗や生活を洛中洛外図屏風や南蛮屏風、その他の当時描かれたいくつかの屏風絵の描写を通して説明しようとしていた。

 しかし近年の社会情勢の変化もあってか当館の運営母体が倒産し、施設は閉鎖された。いずれにしても日本の政治・社会・文化面での革新が為された安土桃山時代を演出した土地なのだから、ここにも内容の充実した文化施設があってもよいと思われる。

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(作成日: 00/023/12、 更新日: 09/01/08)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

大阪城天守閣_大阪市中央区大阪城 1-1_TEL 06-6941-3044_

大坂市営地下鉄谷町線・中央線谷町四丁目駅最寄り出口から約1.5km(55deg.E 1.0km)徒歩20分、

JR環状線大阪城公園駅や森ノ宮駅からも同じぐらい_大_大人子供_

駐車場 有料あり 大阪城駐車場 普通車200台、森ノ宮駐車場 同98

9:00-17:00(16:30)(なお春の桜の期間・GW・夏休み・秋の特別展中などには利用時間延長あり)_

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