秩父市立大滝歴史民俗資料館

険しい山地で木と共に生きる

(知への小さな旅:トップ→目次→風土→)

風土へ  目次へ  

関連(科学者)  関連(運輸)

 秩父市の山奥、荒川の源流地域は秩父市と合併する前には大滝村と呼ばれた。大滝という村名からも、村の様子はおおよそ想像が付く。この村は埼玉県の西端に位置し、その面積は同県の一割を占める広い村だが、大部分か急な山と深い渓谷であり、平地はほとんどなかった。村の周囲は2千メートル級の高山に囲まれ、全村が国立公園内にあった。

 村の人口は千数百人と少なかったが森林は多く、それは関東の大河・荒川の水源林になっている。従って昔の生業は林業と養蚕、及び鉱業、それに若干の畑作だった。中でも林業は村の主産業で、村人は木と共に暮らし生きてきた。

 江戸時代、当地は天領として幕府直轄支配が行われた。その広大な山林は東国第一の御宝山と称され、幕府の御用木の需要を満たした。木材は筏(いかだ)に組んで荒川を江戸まで運ばれた。 農業は急傾斜地のため営農適地が乏しく、振るわなかった。

それでも斜面を利用して畑作は行なわれた。だが耕土は常に下へ流れ落ちるから、サカサ掘りという独特の耕作法を行い、下へ移動した耕土を上方へ戻す畑の保全策を採っていた。当然水稲は作れず、作物はヒエ・アワ・麦・大豆・小豆などで、年貢も小豆で納めたという。それも深い谷間では日照時間が短く収量は少なかったという。

 このように険しい地形でも、村には武蔵・秩父地方と甲州とを結ぶ街道が通っていた。それは標高2千メートル以上の地点を通り、日本三峠の一つに数えられる雁坂(かりさか)峠越えの人貨往来で、秩父往還と呼ばれていた。

 そのため当地には関所やその補助施設が置かれ、村人が交替で詰めていた。近年、この街道に沿って雁坂トンネルが開通し、彩甲斐街道(国道140号線)となって、車両の通行が多くなった。また当村には三峰(みつみね)神社という格式の高い神社があり、昔から霊場として参詣者が訪れた。

 また、村の奥地には秩父鉱山と呼ばれる鉱山があるが、それは17世紀初頭に発見された。江戸中期(1765年〜1776年ごろ)には平賀源内がこの鉱山の経営に手を出し失敗し、それが彼の悲劇的な最後につながった。彼はこの鉱山で石綿を見付けて火潅布を作っている。彼はこの鉱山から産金を狙っていたが、金・銀・銅・亜鉛・鉄などの成分が複合した鉱石の処理技術がなかったのだろう。

彼の滞在先は現在の秩父鉄道三峰口駅から直線距離で約16kmも山間部に入った、目もくらむような深く曲がりくねった峡谷の奥にある中津川集落だった。歩く以外に交通手段がなかったと思われる危険な山道を、源内はよくそこまで行ったと思う。鉱山開発によって国富を招来するという願望もあったのだろうが、産金による起死回生・一攫千金の山っ気もあったであろう。

現地には今でも源内の設計で建て、通算数年も逗留した建物が源内居(げんないきょ 市指定有形文化財 非公開)として残っている。鉱山開発の一環としてか、当地の炭焼きや荒川通船工事に関しても関係している。また鉱山経営の傍ら、「神霊矢口の渡し」などの作品も執筆したという。

 鉱山はその後、戦前戦後期には鉄と非鉄金属の大鉱山として稼働していたが、貿易の自由化により1978年を以って金属鉱石の採鉱は取り止め、今では工業原料となる硅石や結晶質石灰石を採掘している。この鉱山からはかつて見事な鉱物標本が産出して、それは各地の博物館に展示されているという。

 「秩父市立大滝歴史民俗資料館」は道の駅・大滝温泉のそばにあり、当村の自然環境と昔の暮らしぶり、すなわち木を中心とした生業と秩父往還を紹介し、山仕事や炭焼きの道具と秩父鉱山の鉱石標本などを展示している。当館の展示は純粋な山村を表現した資料館として興味深い。

風土へ   文書の先頭

(作成日: 00/11/25、 更新日: 11/06/25)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

秩父市立大滝歴史民俗資料館_埼玉県秩父市大滝4277-4_TEL 0494-55-0021(秩父市教育委員会大滝事務所)0494-22-2481(秩父市教育委員会事務局文化財保護課)_

秩父鉄道三峰口駅から約9km(75deg.W 3.7km)、西武観光バス秩父湖行き・中津川行き・福祉センター行きなどを利用し約30分「大滝温泉遊湯館」下車そば_小_大人子供_

9:00-17:00(16:30)_木曜日(祝日に当たれば開館、翌日休館)12/291/3_{17/03/06}