千葉県立中央博物館大多喜分館

泰西の古書に記された山間の城

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参照(千葉中央博物館)

 

房総半島先端近くの山間部、亥隅(いすみ)川が流れる大多喜盆地に突き出した丘陵には「千葉県立中央博物館大多喜分館」がある。そこは「上総大多喜(かずさおおたき)城本丸跡」として千葉県指定史跡になっている。

 

 当館はその大多喜城御三階櫓を意識して造られた三層四階の城郭風の建物だ。その近くには中世末から小さな城(根古屋城)があったというが、その位置はまだ明確ではない。

 

 当地には1590年、徳川四天王に数えられた勇将の一人・本多忠勝が10万石で入封した。彼は狭い根古屋城を廃し、突貫工事でより大規模な大多喜城を翌年築き上げた。それは隣国の外様大名里見氏の牽制を目的とした堅固な縄張りだった。

 

 この城は凝灰岩の地盤上に築かれたため、軟らかい岩盤を急斜面に切削して石垣の代わりにしている。石垣を築くより突貫工事には向いていたのかもしれない。彼は在城10年余りで桑名に移ったが、その後は息子や甥が5万石で継いだ。

 

 その間、里見氏は大久保長安の事件に連座して、1614年に減封の上倉吉に移され、大多喜城の軍事的必要性は消失した。この城は以後一時廃城となった後、譜代大名が2万石程度で入封し、城は荒廃した状態で明治維新に至っている。

 

 当館はもともと千葉県立総南博物館として開設されたが、県立博物館の再編により、現在は中央博物館の分館になっている。その常設展は「房総の城と城下町」をテーマとしている。

 

そこでは大多喜城とその城下町、及び本多忠勝の紹介はもちろん、房総や広く日本の城や城下町について触れ、また武士の生活や領民の暮らしぶりを実物や資料によって説明している。

 

 ところで、この大多喜藩で発生した大事件としては、1609年のスペイン王国フィリピン臨時総督ドン・ドロリゴの遭難がある。彼は職を解かれてメキシコへ帰る途上だったが、大多喜領御宿(おんじゅく)沖の岩礁に乗船サン・フランシスコ号が座礁した。

 

 地元民の救助活動もあって、一行373人中、317人が助けられた。藩主の本多忠朝は彼らを丁重に扱い、事の次第を幕府に報告し指示を仰いだ。ドン・ドロリゴはこの事故の数年前に幕府と友好的な書簡を交わした人だった。

 

 幕府も彼を厚遇し、まず江戸で将軍秀忠が、次いで駿府で大御所家康が引見している。家康は彼とメキシコとの通商問題や銀山の採掘・冶金技術の導入・商船の入港の件・対オランダ関係・キリスト教布教問題などを話し合ったという。

 

 家康は三浦安針に彼らの帰国用船舶の建造を命じ、約10ヶ月後に一行は帰路に就いた。日本が完全な鎖国状態になったのは、その約30年後だった。ドン・ドロリゴは帰国後に「日本見聞録」を著し、大多喜城に関しても詳しく記述しているという。

 

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(作成日: 11/01/28、 更新日: )

 

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報再確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明。

 

千葉県立中央博物館大多喜城分館_千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481_TEL 0470-82-3007_

)JR外房線茂原駅から小湊バス大多喜行きで「久保」バス停下車1.3km徒歩20(84degs.W  0.5km)

)JR外房線大原駅でいすみ鉄道に乗り換え「大多喜駅」下車1.3km徒歩20(84degs.W  0.5km)

c) JR外房線茂原駅からHMC東京の路線バス茂原線大多喜行きで「大多喜駅」下車後徒歩20

中_大人子供_

9:00-16:30(16:00)_

月曜日(休日に当たる場合は開館し、翌平日に休館)、年末年始(12/281/11/4)、展示替え期間_{17/02/11}

 

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