小田原城天守閣、小田原城歴史見聞館

後北条氏、最終決戦は腰砕け

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近世小田原城と城下町

 箱根山麓に位置する小田原市、ここには小田原城址公園がある。現在観光客が目にする城址は江戸時代の小田原藩10万石規模の城郭だ。再建された「小田原城天守閣」は歴史博物館になっており、戦国時代から江戸時代までの出来事や人物の紹介、当時の武器武具・調度品・美術工芸品などを展示し、城下町と宿場町を兼ねた小田原を紹介している(写真1)odawarajyou1

その二の丸には「小田原城歴史見聞館」がある。天守閣の展示は実物展示を主とするため、小田原の歴史の全体像が分かりにくいのと、子供向きでないためだろう。それを補う意味か、ここでは映像設備や町並模型、あるいは宿場町風景の再現などで戦国大名・北条氏(通称 後北条氏)五代の興亡や江戸時代の宿場町の賑わいなど、小田原の歴史を平易に紹介している。

中世小田原城とその変遷

 小田原に城が築かれた年代は明確ではないが、14世紀末に土肥氏が築いたとされる。その後、1496年にその城は当時の城主・大森氏の手から後北條氏が奪取し、以後約一世紀の間、後北條氏の本拠として拡張され、その領国経営の中心になった。

 五代約百年の間に、関東の半分を手にした後北条氏。その本拠・小田原城は江戸時代のそれより、はるかに城域も広く複郭構造の大城だった。その上、秀吉の来襲直前には、新たに城下集落全体を土塁や堀で囲む、約2.5キロ四方の総構(そうがまえ)を構築して守りを固めた。

odawarajyho1 その城郭の主要部分は近世の小田原城天守閣から東海道線をまたいで北西約0.4kmの八幡山(標高123m)の台地上に広がっていた。写真は石垣山中腹から見た八幡山の遠望である(写真2)。もちろん一段低い所にあった近世の小田原城の城域も含まれていた。

だが今ではその本丸や西曲輪は大部分住宅地や学校敷地などになり、一部に空堀や堀切が残る程度になっている。それでも城山の中心には八幡山古郭東曲輪があり、そこから西方1km弱には、小峯御鐘の台大堀切(写真3)や三の丸新堀土塁などの遺構が比較的よく残存する。

後北条氏の籠城戦

gohohjyo 1561年には上杉謙信が大軍で小田原城を包囲し、また1569年には武田信玄が領内に侵攻して小田原に戦火が及んだ。いずれも後北条氏が籠城戦を続ける内に敵方は比較的短期間で撤退した。

上杉軍の場合は大軍を以ってかなり本気の攻撃だったようだ。だが遠い越後から道中を充分固めずに長躯し、いきなり敵の本城へ攻め掛かったのはやや無理があり、関東管領としての武力威示が目的かともいわれる。

 信玄の場合はその動員兵力から見ても、先年の駿河侵攻の際に後北条氏から受けた妨害の報復と、駿河方面へ展開している北条軍の撤退を狙ったけん制攻撃と見なされている。

それから21年後の1590年、秀吉は小田原征伐と称して大軍を以って来襲し、小田原城を海陸共に完全包囲した。北条方は総動員体制を採り、国内の農民に対して鋤・鍬でもよいから武器となる物を持って集まれと指令し、5万を超える兵力でろう城した。

遠征軍は大軍でも、補給に苦しむ場合もあり、包囲側の作戦行動には乱れも発生しやすいから、城側はその機会を捉えて反攻しようとしたのだろう。そこにはろう城の実績や関東の勇者という自負がその戦略決定に作用したと思われる。だが秀吉はその策に乗らなかった。

小田原征伐と一夜城の対峙

秀吉は20万を越す大軍を動員したが長期戦の構えで動かず、石垣山城を築き本陣にして、後北条方を威圧した。秀吉は標高257mの石垣山城に、北条方は123mの八幡山にと、彼我約3km離れ、約135mの高低差で対峙した(写真4)。写真は後北条・小田原城三の丸新堀土塁から石垣山城を仰ぎ見たものだ。

odawara4秀吉は石垣山城に勅使や有力者を招き、また淀君など側室も呼び、小田原城包囲戦を観戦させた。さらに大名にも妻女を呼び寄せるよう勧めて豊臣方の武威を示している。さらに諸国の芸人などを集めて将兵の士気維持も図った。

長期間の対戦は彼我共に苦しいが、兵糧などは充分に備蓄してのろう城とはいえ、やはり城方は圧迫感のため戦意維持が難しい。まして戦わずして勝つ戦に手馴れた秀吉相手では、ろう城方への謀略も多かっただろう。

この秀吉の常識を超えた作戦に対して、為すこともなく続いた百日余りの籠城は、城方の士気を急速に衰えさせた。領国内の各支城は次々に落城し、当てにした奥州勢の援軍も来なかった。特に八王子城落城の衝撃は大きかったという。

また西国勢に比べて兵農分離が遅れていた後北條方では、農繁期の長期籠城は動員された農民兵の士気を低下させた。さらに重臣からも内応疑惑が出る有様で(その事実は開城後に判明した)、城自体は最後まで総構すら破られなかったものの、戦意低下による内部崩壊で降伏に追い込まれた。

小田原城址のその後

この戦いを通じて秀吉は総構えの効用を肌で感じたのであろう、天下統一後に早速、京の聚楽第や大坂城に総曲輪を造らせている。しかし江戸時代になると、大規模な後北条氏の城郭は大名にとって不必要で、また藩財政上からも到底維持できなかった。

さらに大城は乱の元として嫌う家康の意向もあり、後北条氏の城郭は意識的に破壊された。そして近世小田原城は旧小田原城の低地部分だけを利用して築造された。後北條氏の主要城郭区域は放棄されたため、山林原野に戻っていたので近代になると開発が進められた。

新旧小田原城の城地は今では国指定の史跡になり、近年の発掘調査によりその全貌が次第に明らかにされている。小田原を本拠にして一世紀、自己の最大版図に拡大した後北条氏と、西国を平定して天下統一を狙う豊臣氏の戦いは、本城での派手な合戦こそなかったが、正に強大な戦国大名が雌雄を決する最後の対決だった。翌年1591年、奥州再仕置による九戸城の戦いもあったが、それは戦国大名・南部氏内の相続争いに端を発する内戦だった。

現在、他の戦国大名本拠跡の保存状態から考えると、中世小田原城の保存復元状況はかなり見劣りがする。観光客が訪れるのは近世城郭部分だけで、中世城郭の存在さえも知らないのが普通だ。今後機会を捉えて少しずつ整備して行く必要があると思われる。

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(作成日: 00/06/16、 更新日: 12/07/05)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

小田原城天守閣_神奈川県小田原市城内 6-1_TEL 0465-23-1373(市役所観光課城址公園係)0465-33-1521(市役所観光課観光推進担当)_

JR東海道新幹線・東海道線、及び小田急線小田原駅から1.0km(15deg.W 0.6km)徒歩13分_

駐車場 公園にはない、付近の有料駐車場を利用_中_大人子供_

9:00-17:00(16:30)(なお68月の土・日・祝日および8/158/199:0019:00(18:30))_

12/311/112月の第二水曜日_{17/05/27}

 

小田原城歴史見聞館_神奈川県小田原市城内 3-71_TEL 0465-23-1373 (市役所観光課城址公園係)0465-33-1521(市役所観光課観光推進担当)_

東海道新幹線・東海道線・小田急線小田原駅から0.8km(5deg.W 0.5km)徒歩約10分_

駐車場 公園にはない、公園付近の有料駐車場を利用_中_大人子供_

9:00-17:00(16:30) _

12/311/1_{17/05/27}