日本郵船歴史博物館、日本郵船氷川丸、戦没た船と海員の資料館

海運国日本の消長を考える

知への小さな旅;トップ→目次→運輸交通→)

運輸交通へ  目次へ  

日本郵船歴史博物館

 資源の乏しい島国日本にとって、海外との物流や人の交流は生存上不可欠の要件だ。物資の輸出入の多くは船で行なわれる。日本郵船(NYK)は日本を代表する船会社として、また戦前は客船の運航でも世界に知られていた。

 「日本郵船歴史資料館」は、始めNYK横浜支店に隣接した埠頭倉庫を改造して設置された。当館は日本海運業の歴史、1885年設立のNYKの歴史、活躍した社有船の模型とその活躍ぶり、太平洋航路で戦前活躍した三姉妹船の調度品や一等船客用の食器、近年の海運動向などを展示紹介している。

 三姉妹船とは昭和初期に建造された浅間丸・龍田丸・秩父丸を指すが、いずれも総トン数約17,000トンの、当時の日本を代表する豪華客船として太平洋航路に就航していた。当館では各船のたどった運命の説明もしている。

 浅間丸も華やかな活躍をしたが、1940121日には大事件に巻き込まれた。すなわち、同船が横浜入港する直前、房総沖約50キロの公海上で、英国軍艦によって停船させられ、ドイツ人船客21人を拉致された事件だった。

 これは後に浅間丸事件と呼ばれる国際法に抵触する大事件であった。当時英国とドイツは交戦中だった。だが日本はドイツと同盟関係にあったが、英国とはまだ開戦していなかったから日本にとって難しい問題になった。

 公海上とはいえ、事もあろうに横須賀軍港の目の前というべき地点で行なわれたこの暴挙は、大日本帝国と帝国海軍の威信に関わる大問題だった。両国の交渉によって軍人を除く船客は解放されたが、この事件は当時高まりつつあった国民の反英感情に一挙に油を注いだ。

 浅間丸は第二次大戦が始まると直ちに海軍へ徴用され輸送船になったが、1944年潜水艦によって沈められた。他の2隻の姉妹船はいずれも1943年に多数の乗客と船員を道連れにして撃沈された。ちなみにNYKが戦争中に失った船は185隻に上った。

その結果、5,312人の社員(うち海上社員5,157)が殉職し、当時の船員の半数が亡くなったという。三姉妹船の後継船として建造中だった5隻の豪華船は、すべて空母に改造され悲惨な運命をたどった。それらの空母名は沖鷹(ちゅうよう)・隼鷹(じゅんよう)・雲鷹・大鷹・飛鷹であった。

nykyoko 戦後のNYKは文字通りゼロからの再出発をして、貨物船・コンテナ船・タンカー・自動車運搬船などの物流分野で再建をはたした。今ではその事業内容は海運のほか、陸運や航空輸送にも広がり、多面的総合的な物流企業に発展した。そして近年はクルーズ用の豪華船「クリスタル・セレニティ」「飛鳥」などを世界の海で運航している。

 近年、当館は同一敷地内にある1936年竣工の横浜郵船ビルに移転し、日本郵船歴史博物館としてリニューアルオープンした。その外観は正面に16本の列柱を持つアメリカ古典主義様式の重厚さを、また博物館室内は高さ6mの高い天井に見事な円形花形を施し、アールデコ様式の照明器具や内装をした戦前の記念的建物だ(写真1参照)

 

日本郵船氷川丸

なお当館からやや離れた山下公園先には、戦前から戦後まで奇跡的に生き残った同社の貨客船氷川丸(ひかわまる)が係留保存され、観光用にポートタワーと一体で運営され、内部を公開していた。しかし時代の変化による利用者減少のため公開は廃止され、維持管理も日本郵船の手に戻った。

hikawamaruこの機会に船体の大規模な復元工事が行なわれ、「日本郵船氷川丸」として再公開された。総トン数11,622トンの氷川丸は日本郵船の貨客船として1930年、三姉妹船に次ぐ船として完成した。そしてシアトル航路の花形船として就役し、北米へ多数の船客や貨物を運んだ(写真2参照)

 氷川丸は戦時中に病院船として徴用されたことも幸いし、大型船が全部撃沈された中で、潜水艦や航空機の攻撃から免れた。それでも機雷に3回も触れたそうだが幸い沈没を免れた。表向きは病院船とはいえ、戦略物資や軍人を一緒に日本へ運ぶ違反行為も行っており、もし敵艦の臨検を受けたら自沈することになっていたという。

そして戦後辛うじて生残ったただ一隻の遠洋航海可能なこの大型船は、復員船として使われた後、シアトル航路に復帰して1960年まで活躍する幸運に恵まれた。退役後は横浜の山下公園先に繋留されて、宿泊施設や会議場として使いながら、船内見学施設にもなっていた。

 花形航路に活躍した船内の主要部分は当時のままに保存され、船橋や機関室なども見学できた。その5,500馬力のデンマーク製ディーゼルエンジン2基は驚くほど大きく、それが実際に作動した時の様子は、音と振動で再現されていた。もっとも、その後の技術的進歩によって、現代の同馬力のエンジンは容積で約六分の一になっているという。

 客用施設では、皇族やチャップリンも利用した立派な一等船室やサロンをガラス越しに見学できる。内装はアールデコ調だ。船内で使用された航海用器具や、食器とメニューなども展示され、在りし日の華やかな航海の様子が想像できた。また相部屋で狭い三等船室は頂けないが、多くの人に利用された。

 この奇跡的な幸運を持った本船を見学して、入場券を大切に持っていれば、そこらの社寺に参詣して交通安全のお札を貰うより、ずっとご利益があるかもしれない。それほど大戦中に働いた大型船の生き残りは奇跡に近かった。

 

旧マリンミュージアム

 日本の海運について今少し付言してみよう。かつて東京・晴海(はるみ)ふ頭のそばにマリンミュージアムという施設があった。ここはマリナーズ(船乗りたち)が彼らの仕事の歴史やその現状を紹介するために設立した施設だったが、開設後10年ほどで閉館した。

でもその展示内容には日本の海運に関する大切な史実が紹介されていた。一般に人々は海運といえば大型客船やタンカーなどを、鉄道といえば機関車や新幹線車両を、ビルといえば超高層ビルなどを思い浮かべるだろう。それらは大きくて見栄えがするからだ。

だが大型船も十分な運航技術を持った船員が乗り組まねば動かない。ビルだって保守運用をする各職種の要員が働かなければ、それは鉄とガラスとコンクリートで出来た箱に過ぎない。照明も無く冷暖房も効かずトイレも使えない空間では居住も執務も不可能だ。

このようにハードを利用するために、ソフト面の果たす役割が大変大きい。1855年、幕府は欧米列強の東アジア進出やペリーの来航に危機感を抱き、海軍創設を計画した。そのため長崎伝習所を開設し、オランダ海軍士官を教官にして要員の養成を開始した。

 その頃、日本に帰国したのがジョン(中浜)万次郎(182798)だ。彼は土佐の漁民だったが、出漁中に遭難し米国捕鯨船に助けられた。その後米国で航海術の教育を受け、捕鯨船に乗り組み世界の海を航海した。彼の経歴は当時の日本では得がたい貴重なものだった。

 鎖国していた幕府も、彼を罰せず逆に幕臣に登用した。彼も航海術や英語教育、海外事情の紹介、外交交渉の通訳、捕鯨や造船の指導などで大いに活躍した。当館では第一号船員というべき彼の業績をスタートに、日本人船員のたどった歴史を紹介していた。

 明治維新後、政府は外国船会社に独占されていた日本の外航航路を日本人の手に取りもどそうと船員の養成に力を注いだ。それには長い年数を必要としたが、その後の日本産業の発展と日清・日露・第一次大戦などによって、日本船と日本人船員の数は着実に増加した。

 そして戦前の日本は世界屈指の海運国になったが、第二次大戦で壊滅してしまった。当館の解説によると、この戦争で沈没した日本の商船は大小2,394隻、約800万総トンに及び、その56.5%は雷撃で、30.8%は空襲、6.7%は触雷で失われたそうだ。

船足が遅く武装もなく、ろくな護衛も付かない輸送船を沈めるのは簡単だっただろう。船員の殉職者は6万人を越え、遺骨も遺品も帰らなかった。国は船を徴用しておきながら、殉職船員への戦後の扱いには冷淡だった。

 戦後、ゼロから再出発した海運は復員輸送から始まり、日本の経済発展と共に復活し、船員の数も回復した。ところが1972年をピークとして日本の外航船は減少に転じた。その理由は経済性追求による外国船の利用と便宜置籍船の建造などにある。

 船員数も日本船の減少、便宜置籍船への外国船員の活用、自動化の進行などによって再び激減している。必要な資源のほとんどを海外からの輸入に頼る資源小国なのに、外航船の運航は一部上級船員を除き再び外国人の手に依存する振り出し状態に戻ってしまった。

 

戦没した船と海員の資料館

 マリンミュージアムの閉館後、この種の資料展示施設は関東にはなくなった。だが阪神・淡路大震災の後、神戸の全日本海員組合会館改装に際して、海員組合発祥の地に相応しい施設として「戦没した船と海員の資料館」が開設された。

 当館の性格は入り口にはめ込まれた「海に墓標を 海員不戦の誓い」の銘板によっておおよそ見当が付く。多くの戦没船と多数の戦没船員の関係資料を永久に保存し、その鎮魂に供する意味合いを含めて設置された施設だ。

 当館には194112月から19458月の太平洋戦争期間中に戦没した船の写真やその記録が展示されている。当館の資料によると、この期間に戦没した船は政府記録で官・民一般汽船3,575隻、機帆船2,070隻、漁船1,595隻、合計7,240隻だった。

 日本商船隊戦時遭難史によれば、戦没の原因は雷撃45%、空爆35%、触雷10%、通常海難7%、不明3%と分析されている。そして戦没船での犠牲者は海員60,600人、民間人59,200人、軍人101,000人、合計220,800人に上ったという。

 この数字は前記マリンミュージアムの数字と一見一致しないように思えるが、前者はいわゆる商船だけを対象にした記録と推定される。商船は比較的大きな船が多いから、潜水艦に狙われやすく、雷撃の比率が高くなったのであろう。

 大型船一隻が沈没して一挙に2,000人以上の犠牲者が出た例はいくつもあり、これは阪神・淡路大震災の全犠牲者数を僅か3隻足らずの沈没で上回る被害だった。しかも連日大小の船が次々に沈められたが、戦時報道統制によって沈没の事実さえ戦時中には公表されなかった。

 船員の犠牲率は43%と、戦争による陸海軍軍人のそれ(20%といわれる)をはるかに上回った。大友家持の長歌「海行かば 水漬く屍(かばね) …」の通り、遺骨も帰らなかった。犠牲になった船員の中には14歳の少年が987人も含まれていた。これらの事実を勘案すれば、前記銘板の暗示す意味も真に迫って来るのではなかろうか。

 

運輸交通へ    文書の先頭

(作成日: 00/01/27、 更新日: 12/09/29 )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢

 

日本郵船歴史博物館_横浜市中区海岸通 3-9 神奈川県警本部ビルの並び_TEL 045-211-1923_

a)みなとみらい線馬車道駅の6番出口から徒歩2分、

b)JR京浜東北線桜木町駅から1.0km(E 0.8km)徒歩12分,桜木町駅前市営バス1〜3番乗り場で乗車「本町四丁目」下車徒歩2(26系統のバスなら「警察本部前」下車すぐ)_中_大人子供_

駐車場 ない。近隣の有料駐車場利用が必要 _

10:00-17:00(16:30)_

月曜日(祝日に当たる場合は開館し、翌平日休館)、展示替え期間や防虫くん蒸などの臨休あり(例えば20016年度の例では16/01/252/3, 16/04/184/22, 16/07/117/15)_{16/07/14}

 

日本郵船氷川丸_横浜市中区山下町山下公園地先、日本郵船歴史博物館から海岸通を歩いて約15分、市バスも利用できる。_TEL 045-641-4362_

a)みなとみらい線「元町・中華街駅」4番出口から徒歩3分、

b)JR桜木町駅前市営バス1〜3番乗り場で26系統利用なら「山下公園前」下車そば、その他の系統なら「中華街入り口」下車徒歩3分、

c)なお日本郵船歴史博物館からは徒歩約15分、市営バスなら26系統で「警察本部前」から乗り「山下公園」下車)__大人子供_

駐車場 なし。近隣の有料駐車場の利用が必要_

10:00-17:00(16:30)_

月曜日(祝日に当たれば開館し、翌平日休み)、保守作業などの臨休あり(例えば16年度の例では16/01/251/29)_{16/12/14}_

歴史的保存施設なので船内にはエレベータが無いから車椅子の利用は出来ない。

 

戦没した船と海員の資料館_神戸市中央区海岸通3-1-6 全日本海員組合関西地方支部会館2階_ TEL 078-331-7588(受付は平日の10時から17時まで)_

JR東海道線(神戸線)・阪神電鉄元町駅西口から0.5km8(10degs. 0.4km)、パークロードを海岸方向へ歩き、海岸通を左折してすぐの赤茶色のビル。タクシーあり。_

駐車場なし__大人_

10:00-17:00_

土曜日・日曜日・祝日_{16/12/20}

 

文書の先頭