新座市郷土資料館

入植農民を支え続けた用水路

(知への小さな旅:トップ→目次→風土2→)

郷土2へ  目次へ  

参照(玉川上水B)   参照(玉川上水A)

 東京都中部と埼玉県中南部は武蔵野台地上にある。この地域は元来、古多摩川が造った広大な青梅扇状地の上に位置しているが、そこに太古、富士山や箱根山から噴出した火山灰が厚く堆積した。火山灰は長い間に変質して関東ロームという赤土の洪積層を形成した、すなわち武蔵野台地である。

 一般に扇状地の扇央部は透水性の大きい砂質土壌で構成されている。そのため地下水位が低い。武蔵野台地ではその上をさらに分厚い関東ローム層が覆っているから、なお水に縁がない。この乏水性著しい台地上はかって原野や雑木林が一面に広がっていたので、一帯は武蔵野と呼ばれていた。

 水利施設や動力ポンプがなかった時代には、武蔵野で水の豊富な場所はごく限られていた。それは台地を開析して流れる多摩川・入間川・荒川などと小河川の造った沖積地や谷間と、井の頭池・善福寺池・石神井(しゃくじい)池その他の湧水池周辺、及び河岸段丘崖線部の通称ハケからの湧水だけだった。

 従って当時の台地上では農業用水はもちろん、飲み水や生活用水にも事欠く所が多かった。当然、水稲栽培は出来ず、農民はもっぱら畑作に頼る生活を強いられた。近代以前の武蔵野は麦や雑穀類・豆や芋などの畑と、燃料や肥料用の雑木林や荒地の混在する土地に、ケヤキを屋敷林にした集落が道や水路に沿って短冊状に分布するのが典型的な景観だったと思われる。

 武蔵野の一角を占める西東京市には田無(たなし)という町がある。その地名の由来には異論もあるが、それでも土地柄を言い当てて妙な表現だと思う。そこにあった田無用水の水車場で挽いた麦粉やそば粉が、武蔵野の代表的産物として江戸で知られていたのも尤もな話だ。

 鉄道が開通すると麦や芋のほかに、大根・ウドなどの根菜類や野菜類、あるいは花卉・観葉植物・植木などの栽培や乳牛の飼育といった近郊型農業も導入された。しかし米作中心の日本農業では、畑作農家の経営は収入安定性でも収益性でも不利だった。

 今でこそ、武蔵野は土地成金続出の地だが、都市化以前の農業経営は概して厳しかった。現在でも土着の人々の間でハレの日の食膳をうどんでしめる風習が残っているが、それは畑作農家の往時の暮らしぶりを示す名残だと思われる。戦前・戦中期には平坦地は軍事施設や軍需工場として大いに利用された。

 このような土地だから昔は一筋の上水路が人々の生命線だった。埼玉県新座市に野火止(のびどめ)という所がある。ここも江戸初期には一面にクヌギ・コナラ・マツなどの疎林と原野が広がっていたようだ。ちなみに野火止にある平林寺境内の雑木林は武蔵野の面影を保っているとして、平林寺境内林の名で天然記念物に指定されている。

 江戸前期の川越藩主松平伊豆守信綱(1596-1662)は、自領の野火止を開墾するために畑作農民を入植させた。ところが井戸を掘っても水は容易に出ないから農民は困窮した。その解決策として信綱は水路による導水を考えた。丁度その頃幕閣内で玉川上水開削計画が具体化していたからだ。

nobi1 江戸前期の老中として知恵伊豆とあだ名されたほどの才覚を発揮した信綱は、在任中に多くの業績を残した。その一つが玉川上水開削事業であり、彼はその総奉行を務めて大工事を完成させた。その功績によって幕府から自領への分水許可を得て、野火止用水(元は野火留用水と書いたそうだが)を開削させた(写真参照)

 表向きにはそうなのだろうが、そこには今でも不明か点が色々あるという。例えば分水量だが、玉川上水7に対し野火止上水3という配分比は他の分水に較べて破格な割合である。その分水比率や玉川上水の取水位置決定の経緯、玉川上水上流部のコース選定と野火止用水の分流点の関係などは文書上では明確でない。

 さらに漏水で難航したと伝えられる玉川上水上流部の工事を実際に成功させた人物は玉川兄弟なのか、あるいは水利土木技術者で信綱の家臣だった安松(やすまつ)金右衛門だったのかも分からない。信綱の胸中にも公的立場と自領への思惑が絡んでいたに違いない。

 それはともかく野火止用水の開削は安松金右衛門によって進められ、突貫工事によって水路は玉川上水竣工の翌年、1655年に驚くほど短期間で完成した。それは玉川上水中流部の現小平市で分水され、東北方向へ流れて新河岸川へ至る約24kmの開水路であり、野火止では平林寺堀や陣屋堀など三筋を本流から分水している

 だが素掘りの水路は完成しても、途中には透水性の大きな土質、昔の言葉でいえば水喰土(みずくらんど)が諸所に分布していた。水はそこで吸い込まれて中々末端まで来なかったという。その責任を追求されながらも、安松は漏水個所を粘土で目止めしながら通水に努めること約三年、ようやく末端まで水が到達したと伝えられる。

 上記の経緯から又の名を伊豆殿堀と呼ばれた野火止用水は、農民の飲料水や生活用水として使われnobi2た。さらに完成後程なく、水路は新河岸川を懸け樋で越えて延長され、対岸の水田造成にも利用された。完成当初れ用水の利用戸数は数十戸に過ぎなかったが、明治初年には1500戸に増えている。

 中世には岩槻にあった平林禅寺(平林寺)を水のない野火止へ移せたのも、水路によって禅修業僧の生活用水が確保されてからだった。平林寺には信綱夫妻や安松金右衛門の墓があり、境内林の中に平林寺堀跡が保存されている(写真参照)

 平林寺から2.5kmほど歩いた所に「新座市郷土資料館」がある。そこには野火止用水に関する展示が小規模ながらあり、流路や新田開発の歴史などを紹介している。

 野火止用水や、当初江戸北部・東部の水道用として1696年に開削された千川上水、あるいは江戸への石灰輸送路の宿場だった田無宿の田無用水などは、幕府の都合で玉川上水完成後に比較的速やかに分水された。だが30本以上ある玉川上水の分水には、かなり後年になってから分水された例もある。

 未開原野が多かった武蔵野には、江戸の大火後に江戸から移住させられた住民の新田集落が分布していた。吉祥寺や連雀(れんじゃく)という地名は江戸市中からの移住を示している。また幕府や各領主は新田開発を熱心に進めたから武蔵野の水需要は多かった。

 現在の武蔵野市から分水された品川用水は、延々と約25キロ導水されて品川領の農業用水となった。1669年に開通したこの用水によって旧戸越村(品川区戸越一帯)の収量は二倍になったそうで、用水の威力は絶大だった。

 1732年完成した梶野分水もその一つであり、武蔵野南部の梶野新田への用水供給を目的とした。しかし玉川上水を分水すれば江戸へ送る水量がそれだけ減るから幕府の許可は容易に下りなかった。享保年間の7年に及ぶ村人の請願によって、ようやく認可されたのは細い小川程度の小断面水路だった。

 その水路の大部分は「ほっこ抜き」という暗渠になっており、僅かに小河川を横切る所とその取り付け部分だけが土を突き固めて造った開渠・築樋(つきどい)だった。恐らく貴重な水を蒸発させないよう、汚れないよう大切に導水しようとしたのだろう。小金井市内には河川改修の際下部をコンクリートで改良した築樋跡が保存されている。

郷土2へ

(作成日: 06/04/17、 更新日: )

 

(施設情報)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報再確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明_URL

 

新座市郷土資料館_埼玉県新座市片山1-21-25_048-481-0177_西武池袋線ひばりヶ丘駅北口バスターミナルから朝霞台駅行き・新座駅南口行き西武バスで道場下車後徒歩3分(ひばりヶ丘駅からN40deg.)_小_大人_9:00-17:00(16:30)_月曜日(祝日に当たれば開館し、翌日休館)、祝日(文化の日を除く)12/29-1/3、資料整理日(月末日、ただし月曜日や祝日に当たる時はその前日)_{06/02/15}