()三笠ホテル

軽井沢を体現してきた元ホテル

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 軽井沢駅から北へ約3.5キロ、バスは避暑客でにぎわう旧軽ロータリー界わいを抜けてカラマツの並木道を上って行く。やがて三笠ホテルバス停に止まる。そこに保存されている建物は1905年(明治38年)に竣工した木造純洋式ホテルの「()三笠ホテル」本館だった。

 同種の建物としては1880年に竣工した札幌の豊平館(ほうへいかん 重要文化財)の方がはるかに古い。けれども()三笠ホテルは設計から施工までを日本人が行った点を評価され、やはり重mikasahl要文化財に指定されている。

 豊平館と()三笠ホテルを較べると、建築主では前者は北海道開拓使であり、後者は民間の事業だった。外観では前者が外壁と矩形の窓枠を明色系でスッキリとまとめた米国風の堂々とした洋館だが、後者はこげ茶色の外壁にアールヌーボーやアールデコ調の曲線や幾何学模様を用いた白い窓枠や腕木を配しており、作者にはやや凝り過ぎと思える造りだ(写真参照)

 三笠ホテルは竣工の翌1906年に開業した。もっとも軽井沢の純洋式ホテルとしては万平ホテルの方が先輩だ。万平ホテルは明治27年に軽井沢宿の旅籠から外国人専用ホテルへ改装され翌28年に現在名へ改名したが、明治35年に現在地へ移転した。そのため三笠ホテルは開業当初の建物主要部分が残っている点で貴重な文化遺産といえよう。

 三笠ホテルの室内は、高い天井と明るい窓によって開放的な雰囲気を感じさせる。翻って現代のホテルは空調のためと外部騒音遮音の目的で密閉空間になっているから、随分異なった雰囲気になる。

 また使われた内装材や衛生陶器、什器備品類は英国から輸入され、食器も洋画家の有島生馬が絵付けして英国で焼かせた物を使うなど、当時の最高級仕様の設備とサービスを提供した。駅から遠い点は黒塗り馬車による送迎で同業ホテルに対抗したという。

 静かな林間の広い敷地にある定員50人にも満たない贅沢な造りのこのリゾートホテルは、明治末から大正にかけて外国人や政財界の要人、華族や有産階級の人々に利用された、室内には往時の応接セットなどが置かれている。

 そこに飾られた一枚の写真には名流夫人たちの集った情景が写されているが、庶民には手も届かない空間で繰り広げられた社交の様子が想像させられる。またホテル創業者と白樺派作家の有島武郎が義兄弟だった関係から、文士たちの会合によく利用されたそうで、その席ではさぞかし文談の花が咲いただろう。

 このようにして長い間、軽井沢の代表的なホテルとして華やかな歴史を刻んできた三笠ホテルだったが、第二次大戦末期には政府に徴用され休業に追い込まれた。さらに戦後の数年間は占領軍に接収され保養施設になっていたが、その間に別館を焼失した。

 接収解除後は経営主体が変わり、名称も三笠ハウスに変更して営業を再開したが1970年に廃業した。開業から64年間、所有者も変わり、山津波や火災などにも遭遇し、戦争の影響も受けて経営的にも紆余曲折した。

 その間、幸いにも本館主要部分は維持されてきた。その後建物は山側へ約100メートル移され、修理・復元工事が行われ、1980年に軽井沢町へ寄贈された。1983から一般に公開された。室内には有島武郎や白樺派作家及び軽井沢に縁の深い作家の文学資料も展示されている。

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(作成日: 06/02/26 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

()三笠ホテル_長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢 1339-342_TEL 0267-45-8695(教育委員会文化振興係)0267-42-7072(旧三笠ホテル)_

JR北陸新幹線及びしなの鉄道の軽井沢駅から3.6km(15deg.W 3.5km) 、駅北口バス乗り場から草軽バスを利用し約10分「三笠バス停」下車近く、タクシーあり_

9:00-17:00(16:30)_

年末年始(12/281/4)_{17/05/22}