牧野記念庭園

長寿を植物学普及に捧げた人

 

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東京の西郊、練馬区には「練馬区立牧野記念庭園」がある。このささやかな植物園は植物図鑑で名高い故牧野富太郎博士(18621957)の自宅跡だ。彼は晩年の31年間をここに住んで研究と執筆に没頭し、9110ヶ月の天寿を全うした。そこには彼が「我が植物園」と呼んで大切にした庭が残った。

 

 園内には彼が植えた300種以上の草木が育ち、中には珍しい品種もあるそうだ。13種のサクラの中にはセンダイヤというヤマサクラの栽培種があるこの木は高知市の仙台屋の前にあったそうだが、親木はすでに枯れ同品種の成木は少なく、当園の木が残った内では最大という。

 

 展示室には彼の生涯とその業績が紹介され、遺品や直筆原稿、及び標本などが展示されている。園内には彼の書斎と書庫が保存され、そのたたずまいからは在りし日の研究生活が想像される(写真1参照)。もっとも今はきちんと整頓されているが、彼の在世中は書類と標本がうず高く積み重なっていたようだ。

 

 makino2それは彼の畢生(ひつせい)の大事業「牧野日本植物図鑑」の編集に要する膨大な情報量を考えれば当然といえよう。彼は晩年になって社会にその功績を認められ、数々の栄誉に輝いた。しかしそれまでの道筋は彼の才能と絶え間ない努力を以ってしても苦闘の連続だった。

 

 彼は幕末の1862年に土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)で生まれたが、この年は寺田屋事件や生麦事件などが起きた動乱期だった。生家は裕福な酒造家で雑貨も商っていたようだが、肉親の縁には恵まれず、幼時に両親や祖父を失い祖母に育てられた。

 

 6歳で明治維新を迎え、10歳頃寺小屋に入ったが、程なく寺小屋は廃止された。そのため藩校に入学して勉学を続けた。そこでは欧米の知識も紹介され、英語に触れる機会もあったようだ。ところが運悪く明治政府の学制公布(1872)によって、その藩校さえも廃止され、改めて新設の小学校に入学する羽目になった。

 

 これは双六ならば振り出しに戻ったようなもので、当時12歳の彼にとって、新たに受講した小学校の教科とその程度は甚だ物足りなかったと思われる。また当時の世情では、商売人には読み書きそろばん程度で充分という考え方が普通だったようだ。

 

そのため小学校の全課程を二年間で習得して中退してしまった。不幸にして彼の勉学期は日本教育制度の変革混乱期に遭遇した。中退は新しい教育制度での学習課程を上るエスカレータを途中で降りることで、正規の高等教育を受ける機会を失ったことを意味した。

 

これが彼に後年の苦労を招く一つのきっかけになった。もし彼の生まれが何年か遅かったら新しい教育課程にうまく乗れたと思えるし、また30年以上早く生まれていれば蘭学時代の学者として活躍できたのかもしれない。

 

 それはともかく、彼は早くから植物に興味を持ち、当初は本草学(ほんぞうがく)の学習の傍ら、植物採集に精を出した。だが、生薬への利用の観点から発展した本草学では自然科学としての厳密さを欠き、彼はそれに満たされない思いを感じていたのだろう。

 

やがて先達たちとの出会いから、当時その内容がはるかに進んでいた欧米の植物学へ目を向けた。すでに日本でも幕末期には飯沼慾斎(よくさい 1782?1865)、宇田川穃菴(ようあん 17981846)、伊藤圭介(18031901)などの蘭学者が、西洋の植物学を国内に紹介していた時代だった。

 

従って彼が目指した研究分野も18世紀のリンネや19世紀のド・カンドルとアルフォンス父子などが体系化した植物分類学の分野だった。彼が勧業博覧会の見物と顕微鏡や参考文献の購入を兼ねて初めて上京した際、幸いにも田中芳男(18381916)に会うことが出来た。

 

田中は伊藤圭介の門下で植物学にも詳しく、また博覧会の開催や博物館の開設、生物学や植物分類学の紹介などに活躍していた有能な文部官僚だった。この人物との出会いが彼を東京大学植物学教室へ結び付け、田中らの推挙で植物学教室に出入りを認められた彼は、植物分類学の研究と植物採集に邁進する。

 

だが小学校中退の彼が研究成果を上げれば、高学歴と欧米留学経験を権威の拠り所にする人々からは不愉快な存在と見られ、やがて排斥運動が起こった。批判は彼の業績から個人的問題まで色々挙げられたが、彼の方にも研究熱心の余りやや批判を招く素地があったようだ。

 

そのため一時教室への出入りを差し止められたが、9331歳の時、助手に採用された。しかしその前々年には実家の家業は譲渡・資産整理に追い込まれた。彼は研究や自費出版、さらに調査旅行や同好会の組織など、公私にわたる活動のために身上を食いつぶした。そして経済的困窮はその後もずっと続いた。

 

それでも植物採取と研究は継続した。1900年(明治33年)には「大日本植物志」第一巻第一号を発行し、12年(明治45年)50歳で講師になった。16年には「植物研究雑誌」を自費創刊している。彼は64歳の時、現記念庭園の地に転居し、亡くなるまで活動を続けた。

 

65歳の時、理学博士の学位を受け、77歳まで大学に在職した。翌年78歳の時、生涯の目標であり、研究の集大成となった「牧野日本植物図鑑」が発行された。彼は学歴で苦労もしたが、反面、正規な学歴を経なかったために、固定観念や学閥に制約されず、より自由な立場で研究が出来たともいえる。

 

彼は「学問は底の知られざる技芸也」として、若い頃から15条の抱負を以って植物学の研究を行なった。下記にその抱負の一部を要約引用してみよう。

 

学問や研究には忍耐を以って進めねばならない。

研究はあいまいさを残さぬよう精密にしなければならない。

研究に当たっては少ない資料だけで結論を出してはならない。

研究に関係ある学問は皆学ばねばならない。

学問や研究に当たっては費用の支出を惜しんではならない。

採集や調査のために山野を歩くことを嫌がってはならない。

必要とあればどんな立場の人にも師として教えを乞う必要がある。

素人の話でも意外な真実を含んでいる場合があるから、よく気を付けて聞くこと。

本は多読を要するが、その内容を丸呑みせず、よく理解した上で自分の意見をまとめること。

同好の人々とは広く交わって、知識を交流させることが大切だ。

世界の全てのことは神が創造したとの考え方は、真理の探究者が採るべき立場ではない。

………。

 

彼は先頭を歩んだ者の常として色々批判を受けたが、上記の抱負は学問を志す者の心構えとして大いに参考となる言葉だ。彼の業績は単に植物学の研究や図鑑の刊行ばかりではなく、採集会の組織や講演・研究会を通じて一般人の植物学知識の向上と普及を計った点でも大いに評価されている。

 

筆者はまだ訪れたことはないが、故郷の佐川町や高知市に彼の名を冠した県立の植物園や関連施設が設置されている。また東京の首都大学東京には彼が残した約40万点の標本が保存され、その結果が没後半世紀を経てようやくデーターベース化された。それは植物研究に対する彼の情熱と努力を示している。

 

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(作成日: 11/08/12、 更新日:)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

練馬区立牧野記念庭園_東京都練馬区東大泉 6-34-4_TEL 03-3922-2920(庭園)03-3976-9402(花とみどりの相談所事務室)_

西武池袋線大泉学園駅南口から0.5km(S20degs.W  0.4km)徒歩7(学芸大学附属前バス停から徒歩1分)_

駐車場 なし_小_大人_

9:00-17:00_

火曜日(祝・休日に当たれば開園し、翌平日休園)12/291/3_{17/01/31}