くすりの道修町資料館

くすりの町の沿革と発展を知る

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 大阪の道修町(どしょうまち)はくすりの町として知られる。都心北部に位置するこの通りには、日本の代表的な製薬会社の看板が並んでいる。この町は豊臣秀吉の大坂築城時の町割にも出てくる古い町だ。

 そこは各職種の人々が住む町人町だった。当初は「どうしゅうまち」と呼ばれたそうだが、次第に現在の呼び方に変わって行ったという。江戸初期の17世紀前半には堺の薬種問屋が幕命でこの町に移ってきた。

 そして17世紀中ごろの明暦年間には、すでに薬種商が108軒も集まり、薬種問屋の町が形成されていたと古文書に記録されている。江戸中期享保年間に当たる1728年には124軒の問屋が薬種中買仲間として公認された。

 この株仲間は輸入漢方薬の薬種(唐薬種)を独占的に全国の販路へ元卸できる地位を与えられた。それ以来、明治初期まで株仲間は継続し道修町は薬種の町として定着した。国内で産する薬種(和薬種)については、独占的地位は与えられなかったが、この町の経済力と販売力によって和薬種専門の問屋は全国の流通に大きな影響力を持っていた。

 薬種には往々にして偽物や不良品が混じり、量目不足の場合もあり、その吟味(検査と品質鑑定)は難しい仕事だった。品質と分量を正して正当な価格を定め、全国の販路へ供給することは株仲間に課せられた重要な義務だった。

 そのため彼らはくすりの神様の神前で気持ちを引き締めてその仕事を遂行したと伝えられる。くすりの神様とは中国の神農さまと日本の少彦名命(すくなひこなのみこと)であり、道修町にはそれを祀る少彦名神社が鎮座している。(写真参照)

 神社の社務所には道修町の歴史を示す膨大な道修町文書が収蔵されており、「くすりの道修町資料館」が併設され、この町を歩みを紹介している。この神社は仲間の集会所として使われ、彼らは薬種講を結成して活動を広げていった。

 維新後の明治5年に株仲間は廃止され、大阪薬種卸商組合へ巧みに移行を果したが、その当時でもこの町ではまだ売薬は扱っておらず、店頭に派手な金看板などはなかったという。このころから次第に洋薬も扱うようになった。

 明治後期から大正時代になると製薬も手掛けるようになり、殊に第一次大戦の期間はドイツからの薬の輸入が途絶したため製薬部門は大いに発展し、今日の大手製薬会社の基礎が出来上がった。

 第二次大戦後は抗生物質などの新薬を導入しながら、自主開発にも力を注いでいたが、最近は人間の遺伝子情報解読結果を活用して有効なくすりを開発する、ゲノム創薬を目指して、各社がしのぎを削っているという。

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(作成日: 03/07/31、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

くすりの道修町資料館_大阪市中央区道修町 2-1-8 少彦名神社社務所ビル3F_TEL 06-6231-6958_

a)地下鉄堺筋線北浜駅6番出口から0.3km(S20deg.W 0.2km)徒歩4

b)地下鉄御堂筋線淀屋橋駅12,13番出口から徒歩10分_小_大人_

10:00-16:00_

日曜日、祝日、8/138/1612/281/4_{17/06/02}