にかほ市象潟郷土資料館

歌枕は突如消えてしまった

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 参照(芭蕉A)  参照(芭蕉B)

 東北地方の最高峰・出羽富士の異名を持つ鳥海山、その北西麓ににかほ市象潟(きさかた)町がある。この町の背後には一面に水田が広がっているが、ほんの200年ほど前まで、ここは東西1キロ、南北2キロほどの浅い入り江だった。

 太古、鳥海山は大噴火をして北麓に大爆裂口をつくった。その際、発生した泥流は象潟一帯に堆積した。その時に埋没した杉の埋もれ木が「にかほ市象潟郷土資料館」に保存されている。それはBC466年に起きたと推定されている。

 その後、象潟一帯は地盤沈下をして海水が侵入し、海食作用の結果、岩の部分だけが小島として残った。また前面には砂嘴(さし 湾の入り口にある岬の先端部に、沿岸流の運んできた砂が鳥のくちばし状に堆積した地形)が形成されて、内部は静かな内湾になった。これが八十八潟・九十九島の景勝地、往時の象潟だった。象潟の集落の大部分はかつての砂嘴上に立地している。

 象潟の背後には鳥海山がそびえ、その美しい姿を水面に映すさまは、松島と並ぶ名勝として世に知られた。平安中期には旅の歌人・能因法師が、また鎌倉時代には同じく西行法師が訪れている。特に能因は象潟の小島に庵を結び、3年間寓居したと伝えられる。その島は現在、能因島(写真右側の丘)と名付けられているが確証はないようだ。

 「世の中はかくてもへけり蚶方(きさかた)の あまのとまやをわが宿にして」は能因の作といわれる。彼にしても西行にしても蚶方という字を使っているから、大昔はそのように地名を書いたのだろう。なお蚶は赤貝を意味する字だ。

 松尾芭蕉も当地を訪れ、「おくのほそ道」に「江の縦横一里ばかり、おもかげ松嶋とかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」と書いている。そして「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ。

 西施(せいし)は古代中国の傾国の美女で、彼女の憂いを含んだ美貌を小雨降る象潟に例え、また眠ろうとする彼女のまつ毛を現地に咲いていたネムノキの、ピンク色をした花の長い雄しべにかけた。この句は西湖の美しさを西施に対比した北宋の蘇軾(そしょく、号は東波居士)の詩を、彼が意識して詠んだとされる技巧的な句だ。

 なお現地に残る旅客集によれば、それ以降もその風光と芭蕉の足跡や俳風を慕って多くの人が当地に来訪している。その一人、小林一茶は「象潟や嶋がくれ行刈穂船」と詠んでいる。平賀源内も秋田へ向かう途上に立ち寄っている。

 ところが1800年から翌年にかけても鳥海山は噴火して、中央火口丘・新山が生まれた。その3年後の1804年には直下地震が当地を襲い、象潟一帯は約2.4メートル隆起した。伊能忠敬の測量隊が象潟沿岸を測量したのは偶然にも1802年で、象潟消失の直前だった。そのため彼らが作製した奥州沿海図には火を吹く鳥海山が描かれているそうだ。

 消失直前の象潟は最深部でも水深2メートル弱に過ぎず、地盤隆起のため完全に干上がった。突如現れた陸地ともなれば、その入会権の調停もややこしかったに違いないが、程なくそこは水田化され、田んぼの中に小さな丘の残る風景に変わった。丘は103あって国の天然記念物になっている。

 なお芭蕉は象潟の縦横を一里(4キロ弱)と書いている。消失直前の大きさに比べると大きいようだ。しかし、芭蕉の来訪は象潟の消失の一世紀前で、その間に浅い潟の端の方が土砂流入で陸化して新田開発がなされたのかもしれない。その間の事情は作者には分からない。

 当館には隆起前の象潟の(825分の1模型)や、その風景を忠実に描いた象潟図屏風、そして現地から採取された地層断面標本が展示されている。それによると30センチほどの黒い表土の下には各種の貝殻を含んだ地層が厚く堆積しており、往時そこに入り江が存在し貝がたくさん生息していたことを示している。

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(作成日: 02/03/30、 更新日: 04/02/08)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

にかほ市象潟郷土資料館_秋田県にかほ市象潟町字狐森 31-1_TEL 0184-43-2005_

JR羽越本線象潟駅から1.1km(S40deg.E 0.8km)徒歩15分_小_大人_

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7月曜日、国民の祝日の翌日及び振替休日の翌日、_{17/05/22}