奥州市埋蔵文化財調査センター

坂上田村麻呂とアテルイの激突地

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 北上川中流域の奥州市には胆沢(いさわ)城跡があり、現在も発掘調査が行われている。その発掘作業はまだ一割前後しか進んでいないそうだが、多様な出土品から当時の様子が解明されつつある。「奥州市埋蔵文化財調査センター」は胆沢城跡のそばにあり、関係資料を公開しながら調査活動を続けている。

東北地方では律令国家の時代から平安初期までの長い間、豊かな土地を求めて北方の日高見国へ支配領域を拡大しようとする大和政権と、その侵略を阻もうとする土着民蝦夷(エミシ)との衝突が繰り返された。

大和側は城柵を次々に構築し、関東・北陸から人々を移住させて、日本海側が先行する形で支配地を北上させた。その過程では懐柔と反乱討伐のサイクルが繰り返された。

 平安中期以降は蝦夷をエゾと呼ぶようになったが、それ以前はエミシといったそうだ。エミシとエゾでは人種的概念にやや違いがあるといわれるが、いずれにしても大和側から見れば信用できない辺境外の蛮族と見なされていたが、実際には弥生時代から米作をしていた土着の民だった。当館には当時稲作に使っていた石包丁が示されている。

 都の造営と蝦夷征討に熱心だった桓武天皇の治世下、北上川流域では780年から802年まで度々衝突が発生した。大規模な合戦は三回あった。胆沢(いさわ)エミシの指導者・阿弖流為(アテルイ)は戦いの巧者で、その間、寡兵でよく大和側の大軍を破っている。

第一回目は巣伏せの戦いと呼ばれ、789年に現在の水沢区東部を流れる北上川を挟んで行われた。約2万6千の遠征軍に対し1/17程度の兵力で対戦したエミシ側は、巧みな戦法によって大勝し遠征軍を撃退した。大和側の多数の兵が北上川で溺死したと記録されている。

もっとも作戦参加兵力は大昔のことでもあり、軍事機密でもあるから正確には分からない。辺境外への遠征となれば補給部隊にも多数の兵を割かねばならない。ただ朝廷が征夷大将軍のような主将を任命して派遣する遠征軍が少数であるはずがない。彼我の兵力には大差があったのは確かだろう。

 その五年後に第二回目が行われた。大和側は前回の倍以上の大軍を派遣し、坂上田村麻呂(758-811)が征東副使に任ぜられた。この戦いではさすがのエミシ側も大きな損害を受けたが、遠征軍が撤退するまで持ちこたえた。しかし戦場となった胆沢地方は荒廃し、エミシ側の戦力は疲弊してしまった。

 そこを狙って大和側の懐柔の手が伸びる。これによってエミシ側の団結力が緩んだ三年後の時点を捉えて、801年、田村麻呂を征夷大将軍とする四万の軍勢が第三次蝦夷征討を開始した。

その結果、翌802年には生命を保証するとの田村麻呂の降伏条件をアテルイが受け入れ、アテルイとその協力者盤具公母礼(イワグノキミ モレ)は五百の兵と共に降伏した。だがその条件を朝廷は最終的に認めず、結局欺かれた形のアテルイとモレは現在の大阪府枚方市で処刑されてしまった。

 アテルイが降伏後、田村麻呂は胆沢城を造営する。これによって大和政権は岩手県中部までを支配下に置き、さらに北東北への支配地拡大を目指すことになった。胆沢城には多賀城から鎮守府が移され、以後大和側の軍事・行政の中心になったとされる。

 この城は近世の城とは異なり、670メートル四方の築地(ついじ)土塀で外郭を囲み、内部に90メートル四方の政庁があった。そして胆沢城はそれ以降、約150年間機能したといわれる。しかし1051年には朝廷側と安倍氏との間で前九年の役が始まり、被征服民抵抗の戦いは再開された。

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(作成日: 99/06/19、 更新日: 04/08/04)

 

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9:00-16:30(16:00)_

火曜日、12/291/3_{17/06/02}