海外移住資料館

海外移住史と日系人の現状を

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  参照(分村移住A)  参照(分村移住C)

 横浜のみなとみらい21地区に国際協力事業団の「海外移住資料館」がある。珍しい施設だが、同事業団の前身が海外移住事業団だったから、それもうなずける。現在、海外に居住する日系人は250万人に達したそうだ。この数字は日本の開国以来、一世紀強の移住の結果といえる。

 江戸幕府は1866年(慶応2年)、227年に及ぶ鎖国令を一部解禁し、学技就業その他の目的で海外渡航を志願する者へパスポートに相当する「御免の印章」を下付する旨を布告した。

 これは現代人の頭で考えると朗報に思えるが、居留地に在住する外国商人にとって、日本人を大っぴらに海外へ連れ出す機会到来でもあった。すでに1861年にはサンフランシスコへ最初の日本人男性召使が来たことが国務省の公式記録に残っている。

 幕府も、続く明治政府も奴隷制に代わる役割を担わされた清国人苦力の悲劇は知っていたから、日本人が悪徳仲介業者の手にかかり同じ目に遭うことを警戒し防止しようとした。そのため政府は当初、政府間の取り決めによる官約移民の制度を採用した。

 1885年(明治18年)には第一回ハワイ官約移民1945人が横浜から出航した。本格的な移民の始まりだった。その後、政府は官約移民制度を取止め、それを移民会社の手に委ねたが、当然予想された弊害が発生した。そこで1896年(明治19年)に移民保護法を制定している。

 しかしハワイや米国への移住者が増えると、早くも1891年にはサンフランシスコの新聞に日本人労働者攻撃の記事が現れた。やがて排日的な移民法が成立し、米国への移住が困難になると、移民の流れは中南米へ向かった。1908年(明治41年)にはブラジルへ最初の移民が行なわれた。

 いずれの国へ渡った人も、現地では言葉の壁はもちろん、文化や風俗習慣の違い、自然条件や気候風土に対する認識不足、風土病や人種差別との遭遇、農業方式の極端な相違や病虫害との戦い、商品作物に頼る単一経済の不安定さによる経済的困窮などに悩まされた。

 それらを克服して、ようやく安定を手に入れたのも束の間、今度は世界恐慌や第二次大戦の大波をかぶり、一から出直しを余儀なくされた。殊に中国東北部へは1936年から「分村移住」という形の集団農業移住が国策として大々的に推進されたが、戦乱に巻き込まれ、日本の敗戦によって全て挫折し悲惨な結果に終わってしまった。

 時の経過と共に、海外移住の目的も農業移民から技術移民や国際結婚などに変わり、海外移住から國際協力や國際交流の時代になった。

 当館は事業団の性格から主として北米・中米・南米への移住の歴史と新世界への参加を扱っている。すなわちその歴史的流れ、移住地での定着への苦闘、現地での生活や日系人社会の現状などを実物資料や模型などを交えて紹介している。

 だが別な見方をすれば、この一世紀の間に東西南北へ向かった日本人の海外移住は、時代により程度の差はあるが国策で進められた。しかし結局戦争や国際政治情勢にほんろうされて、僅かに東へ向かった人々が定着できたに過ぎなかったともいえるだろう。

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(作成日: 02/11/26、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

JICA横浜・海外移住資料館_横浜市中区新港 2-3-1 赤レンガ国際館 国際協力事業団横浜国際センター内_045-663-3257_

a)  JR京浜東北線桜木町駅から1.1km(N70deg.E 0.9km)徒歩15(汽車道・ワールドポーターズ・新港サークルウォーク経由、晴れた日なら海の上を歩くので気分がよい。)

b)  同駅からバスなら142系統赤れんが倉庫行きで「ワールドポーターズ」下車後徒歩 4分、(土日や夏休みなどには100円バスあかいくつ号が運行され「ワールドポーターズ」下車)

c)  みなとみらい線馬車道駅(4番出口)やみなとみらい駅(クイーンズスクエア方面出口)からも徒歩約10

d)  JR・市営地下鉄関内駅から馬車道経由で徒歩15分_

駐車場 なし_中_大人_

10:00-18:00(17:30)_

月曜日(祝・休日に当たる場合は開館し、翌日休館)12/291/3、臨休(年間8日ぐらいの臨休があるので事前確認が望ましい)_食堂あり_{17/07/07}