旧岩崎邸庭園、旧古河庭園、三井記念美術館

財閥邸宅跡で在りし日を思う

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参照(清澄庭園A)  参照(飛鳥山A)   参照(足尾鉱毒A)  

参照(コンドルB)  参照(渋沢栄一A)  参照(旧三井邸A)

 戦前の日本経済界を支配した大財閥の一つ、三菱財閥の創設者は土佐出身の岩崎弥太郎(1834-1885)だった。彼は維新前後から海運業に携わり、それを通して明治政府に政商として食い込んだ。

 彼と弟で二代目になった弥之助(1851-1908)は事業の拡大と多角化を進め、三菱財閥の基礎を作り上げた。その後、三菱は不況や大恐慌も乗り切り、国の大陸進出政策や軍備拡張に乗る形で拡大を続けた。

 だが戦後は連合国の財閥解体政策によって、さしもの三菱財閥も解体に追い込まれた。傘下の有力企業も分割されたが、それらは対日講和条約締結後に再結集して巨大な企業グループを形成し、戦後の日本経済に確固とした地位を占めていた。

 しかし、その三菱グループも重厚長大型産業に偏った構成からの脱却が遅れ、民生部門が弱く、かつそれを軽視する傾向があったためか、日本経済における占有率は近年年々低下している。三菱自動車の問題はその体質を如実に表わした一例といえなくもない。

 それはともかく、戦前の三菱財閥は強大で、三井財閥と覇を争う存在だった。それを率いた岩崎家の邸宅が一部ではあるが、東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)を見おろす高台に残っている。

 大名屋敷跡に造営されたこの邸宅は今では「旧岩崎邸庭園」として公開されている。その敷地内には主として迎賓館として使われた洋館やビリヤード場、書院造りの広間、及び和洋折衷の庭園があり、いずれも重要文化財に指定されている。

 この洋館(写真1参照)やビリヤード場はお雇い外国人として来日し、日本の近代建築れい明期に多大の業績を残したジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計によって1896年(明治29)に完成した。

 洋館は17世紀の英国の様式を基調にして、それに各国の様式を融合させた大きな木造建築であり、またビリヤード場はスイスの山小屋風に造られた。洋館内の柱に塗られたワニスが経年変化によって結晶化しているように、館内は古色蒼然として薄暗いが、貼られている壁紙も貴重なものという。

 ここに岩崎家が居住していた当時、その敷地面積は現在の約三倍の5万平米ほどあって、そこには家族や多数の使用人が住んだ広壮な和館があったが今は残っていない。戦後はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の接収や財産税としての物納を経て国の施設として使用されていたが、近年都立公園化された。

 一方、東京都北区の西ヶ原には足尾銅山の経営で巨利を得た古河市兵衛(1832-1903)が創設した古河財閥の古河家旧邸と庭園がある。この敷地は明治の元勲陸奥宗光の別邸だったが、宗光の次男が古河家の養子になった時に古河家の所有となった。

 台地と低地からなるこの敷地には洋風庭園と和風庭園が巧みに配置されている。こちらも都指定の名勝「旧古河庭園」として都立公園になっており、特に春秋のバラや紅葉の時節には多くの人が訪れる。園内高台にある旧古河邸(写真2参照)は「大谷美術館」が管理しており、毎日何回か時刻を定めて説明付きで見学できる。

 この建物もコンドルの最晩年の作品であり、外壁は安山岩張り、屋根はスレート葺きのレンガ造りの大きな建物で関東大震災にも耐えた。館内には洋室と和室が混在し、洋風のホールからドアを開けて入ると、中に襖があり日本間に変わるようになっている。

 この建物が竣工したのは市兵衛の死後で、足尾高山鉱毒事件もひとまず片付き(鉱毒問題は戦後にも再発しているが)、古河系企業が第一次世界大戦下の好景気によって成長し、古河合名のもとに結集して古河財閥として発展を始めた1917年(大正6年)だった。邸内には三人の家族と庭師を含めて数十人の使用人が居住していたという。

 その後、古河家が新宿区へ移転してからこの建物は古河グループの迎賓館として使われていた。戦後はお決まりのGHQ接収や財産税の物納を経てその後長く放置され荒廃していたが、近年修復して公開された。二つの大邸宅の推移はいかなる権門勢家といえども時代環境の変化などによって、永続は難しいということを示している。

財閥が存続していた当時、その行動には世人から指弾される局面も決して少なくなかった。現在それが民衆の憩いの場になっているのは、せめてもの罪滅ぼしといえなくもない。足尾鉱山鉱毒事件の悲惨な印象が付いて回る古河財閥の場合は特にそのように思える。

 なお旧古河庭園から北西に約1キロ行った所に飛鳥山公園がある。その隣に近代日本創成期に幾多の企業を設立し育成した渋沢栄一の邸宅があったが、戦災で焼失して、現在では文庫と離れの晩香盧だけが残り、近くに渋沢史料館がある。彼は多くの企業を育成したが、財閥形成を目指さなかった。

 旧古河庭園から南に1キロほど歩くと、元禄時代に柳沢吉保が将軍綱吉をもてなすために造営した六義園(りゅくぎえん)がある。万葉集や古今集に詠まれた景色を園内各所に表現したこの日本庭園は特別名勝に指定されている。この六義園も明治初期には岩崎弥太郎の別邸となっていた。また江東区の隅田川べりにある清澄庭園も同じ頃、彼の所有だったが、いずれも後日旧東京市に寄付され、現在では都立公園になっている。

miteui ところで戦前の日本最大の財閥・三井家の本邸は戦災で焼失した。戦後応急的に建てられた屋敷は現在小金井市の江戸東京たてもの園に保存されている。その代わり三井財閥最盛期の1929年竣工した三井本館は現存し、重要文化財になっている(写真参照)

館内には「三井記念美術館」が設置されている。そこには江戸初期から三井家が収集した茶道具・書画・美術工芸品や古文書・書蹟など、また三井家伝来品、例えば什器備品とか雛道具、営業用具・記録文書、切手のコレクションなどが収蔵され、テーマを定めて順次展示されている。

なお新古典主義のアメリカン・ボザール様式によるこの建物は、財閥の本拠として似つかわしい重厚な外観だ。三井財閥は当時日本最大の金融商業資本だったから、館内に残る書庫用大金庫や重役用食堂を見ると、そこで話し合われたり扱われたりした事物が、日本全体に大きな影響を及ぼし、時には庶民の怨嗟の的になったことを想起させられ印象深い。

建造物(維新後)

(作成日: 05/01/28、 更新日: 07/04/02)

 

施設名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離駅からの概略方位と直線距離・所要時間・バス_規模_対象_開館時間受付終了時刻_休館日_備考_{情報最終確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

旧岩崎邸庭園_東京都台東区池之端 1-3-45_TEL 03-3823-8340_山手線御徒町駅北口から0.8km、徒歩15(76degW 0.7km)、東京メトロ千代田線湯島駅1番出口から徒歩3分、同銀座線御徒町駅から徒歩10分、都営地下鉄大江戸線上野御徒町駅から徒歩10分_中_大人_9:00-17:00(16:30)_12/29-1/1_{05/09/30}

 

旧古河庭園_東京都北区西ヶ原 1-27-39_TEL 03-3910-0394_京浜東北線上中里駅から0.5km,徒歩 8(S 0.4km)、東京メトロ南北線西ヶ原駅から徒歩 8分_中_大人_9:00-17:00(16:30)_12/29-1/1_なお公園内にある旧古河邸は庭園とは別に財団法人 大谷美術館が管理しているので見学受付時刻などはそちらに問合せするとよい。電話番号は03-3910-8440_{05/09/30}_

 

三井記念美術館_東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階_TEL 03-5777-8600(ハローダイアル)_東京メトロ銀座線三越前駅A7出口から1分、同半蔵門線三越前駅から徒歩3分、同東西線日本橋駅B11出口から徒歩4分、東京駅日本橋口から徒歩7分_中_大人_10:00-17:00(16:30)_月曜日(祝日・休日に当たれば開館し、翌平日休み)、展示替え期間_{07/04/02}