鉢形城歴史館

支城は本城の盾として戦ったが

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 関東の大河・荒川は秩父盆地から長瀞を経て関東平野へ流れ下る。埼玉県寄居町はその出口に位置している。image001.jpg平野部に入った荒川は、ここで台地を浸食して玉淀(たまよど)と呼ばれる峡谷を造っている。その断崖を利用して築かれたのが鉢形城だった(写真参照)

寄居は当時の鎌倉道が通り、相模・武蔵から甲斐・信濃・上州に向かう交通の要衝であった。そのため室町時代から城が築かれ、その城をめぐる争奪戦が繰り返されて、やがて藤田氏の居城になった。そこへ後北条氏の力を背景に入婿したのが北条氏邦だった。

氏邦はこの城を北条氏屈指の大城に拡張改修した。それは北条氏の北関東支配の拠点となり、また上州攻略の基地として利用された。さらに越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄などの、強力な戦国大名の侵攻を阻む城としても機能した。

 鉢形城は荒川と、その支流の深沢川の深い谷に挟まれたくさび形の台地上に広がっていた。そのため西南方向は比較的高度差の少ない平坦な地形になっているが、そこには堀や土塁を幾重にもめぐらして守りを固めていた。空堀には北条流築城術に独特の障子堀や畝堀も確認されている。

xhojyo2この城は1561年の謙信や、1569年の信玄などの来攻をやり過ごしたが、 1590年の豊臣秀吉の小田原征伐(小田原役)では、5万と称する遠征軍別働隊に対して氏邦以下3千5百の城方は一ヶ月余のろう城戦を続けたが、力尽きて6月14日に降伏開城した。前田家に預けられた氏邦は能登で生涯を終えている。

xhojyo3.jpg xhojyo3鉢形城跡は戦国末期の城の姿を良く残しているため国の史跡に指定され、鉢形城公園として整備されている。その外曲輪の一角に設置された「鉢形城歴史館」には、鉢形城や北条氏と氏邦に関する解説、出土品や城域模型などの展示がある。

 現地で見る城跡西側は広々としているが(写真参照)、本丸とその周辺は680種に及ぶ国内外の樹木を植えた樹木展示林や花木園になっている。搦め手に作られた鉢形城の縮尺250分の1復元地形模型は、広い鉢形城の全ぼう理解に役立つ。

 ところで北条方の各支城はいずれも豊臣遠征軍に攻撃された。攻防戦の推移と結末は色々だが、代表的な例を挙げてみよう。八王子城は北条氏照の居城として東京都と神奈川県の県境に近い山間部に築かれた。それは小田原城に次ぐ規模を有する大城で、甲斐からの武田軍の侵攻に備えていた。

 八王子城が築城される以前、氏照はそこから東北東約9キロの滝山城を居城にして武蔵西部を支配していた。1569年武田信玄の小田原攻めの際、経路に当たる滝山城は激しく攻撃された。滝山城も大城だったが、多摩川に面した側だけは断崖だか全体的には低い丘山城だったから、武田軍は三の丸を奪取して落城寸前までに追い込んだ。

 幸い武田軍が小田原攻撃へ向けて転進したため落城は免れたものの、これを契機に氏照は滝山城を放棄し、より急峻な山城を築城して移った。これが八王子城であり、その後も年々改修を重ねて強化され、規模的にも地形的にも守りの堅い城の筈だった。

 ところが小田原役では、碓氷峠を越えて来襲した別働隊は4月に松井田城を、5月に武蔵松山城、6月に鉢形城と北条方の重要支城を次々に落とした勢いで、6月22日に八王子城攻略に取り掛かった。八王子城はその日の内に落ち、追い詰められた城内の婦女子は御主殿の瀧に身を投じ川を血で染めたと伝えられる。

 xhojyo1その時氏照は旗下の主力部隊を率いて小田原城ろう城に参加しており、城方は城主不在で兵力も少なかった。xhojyo1.jpg本丸と、山の尾根を掘切りして築かれたいくつかの砦によって居館部分を囲んだ大規模な城構えは、大兵力ならば強固な城だったに違いないが、兵力が少なければ全体的に手薄になって守れなかったのだろう。

 この敗報は7月5日の北条氏降伏の引き金になったといわれる。現在、八王子城跡の広大な城域は山間部にあるため遺構がよく残り、国の史跡に指定されている。居館地区とその虎口の石垣や石段は復元整備されている(写真参照)。発掘調査も徐々に進んでいる。

 また三島駅から東北東へ、芦ノ湖に向って国道一号線を上って行くと、標高約600メートルの箱根外輪山中腹でバスは山中城跡の側を通る。この城は小田原城西方の最重要防衛拠点として1587年から急遽大改修が行われた。周囲に出城群を配置し、北条流築城術を駆使して強化された大城は、豊臣軍来攻直前の2月末に完成した。

 しかし3月29日に来襲した豊臣軍本隊の攻城部隊は約7万と号する大軍だった。対する城方は4千程度だったから出城群はすぐに潰され、山腹の斜面に立地しているため城外との比高が小さい山中城は、四周から同時に攻められたのか僅か数時間で落ちた。正に鎧袖一触だった。この城の遺構もよく残り国指定史跡として公園化されている。

 さらに三島駅の南南東約10キロには韮山城跡がある。韮山城は北条早雲が最初に城を構えて関東経略を開始した北条氏にとって由緒深い城であり、北条氏規(うじのり)が守っていた。規模はさして大きくないが里山の尾根末端の丘陵上に築かれていた。

 当時城の周りは低湿地だったそうで攻め難かったためか、3月末の攻撃開始から小田原城降伏まで城を保った後、平和的に開城している。もつとも北条氏規は開戦前に上洛し秀吉に謁し、豊臣・北条間の和議に奔走した実績を持ち、戦争中も和議を模索したから攻城勢にも手心があったのかもしれない。後に氏規は秀吉から7千石弱の禄を与えられている。

 また元荒川の流域にある埼玉県行田市の忍城(おしじょう)は、忍沼の低湿地を利用して築かれた水城だった。こちらは石田三成の水攻めを受けたが粘り強く守り、やはり小田原開城後に開城した。

 このように各支城は奮戦したのに、肝心の小田原城は約百日間ろう城しただけで降伏した。開城まで大外郭さえ破られなかった守りの堅さはよしとしても、その間首脳部は悪名高い小田原評定を続けて和戦の方針も定まらず、華々しい戦いも仕掛けなかった。

この体たらくに城内の士気は次第に衰え、重臣からも内応者が出る有様で、戦国関東の雄・後北条氏は内部から崩壊してしまった。最高実力者の北条氏政と主戦論者の北条氏照は秀吉から切腹を命じられた。

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(作成日: 06/07/12、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{情報再確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

鉢形城歴史館_埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2_048-586-0315_

a)八高線・秩父鉄道線・東武東上線寄居駅から1.8km徒歩25(20deg.E 1.3km)

b)バスなら寄居駅から東秩父村営バス和紙の里行きで「鉢形城歴史館前」下車徒歩5分_

駐車場 あり_中_大人_

9:30-16:30(16:00)_

月曜日(祝日に当れば開館)、祝日の翌日、年末年始_{17/02/28}