平和祈念展示資料館

戦中戦後の民衆の受難を語り継ぐ

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参照(戦時生活A)  参照(戦時生活B)  参照(抑留B)

 1931年から1945年までの15年間は日本にとって戦争の時代だった。それは15年戦争と総称されている。東京都庁の近くにある「平和祈念展示資料館」は「戦争体験の労苦を語り継ぐ広場」にするため、平和祈念事業特別基金によって開設された。

 1929年に始まった世界恐慌は全世界に深刻な経済的混乱をもたらした。各国は自国経済を立て直すために色々な打開案を模索し実行した。だが採りうる手段は限られ、その過程で国家間の利害が衝突し、戦雲が次第に世界に広がって行った。

 日本では世界恐慌の2年前から銀行破綻が相次ぐ金融恐慌下にあったから、世界恐慌の影響は大きかった。この深刻な不況を克服し国民生活を安定させるために、政府は国債を大増発して軍需生産の増大し軍備拡張を行なった。その武力を背景に中国東北部へ進出を計り、かいらい政権の満州国を樹立した。

 このことに中国はもちろん、世界各国が反発し日本は国際的に孤立してしまった。やがて日中戦争が起こり、ABCDラインと呼ばれる列強の対日経済封鎖が始まった。日本の景気対策の結果は、逆に消耗戦中の経済封鎖という最悪の事態を招いてしまった。

 15年戦争は1931年の満州事変から始まり、1937年には日中戦争が、1939年にはノモンハン事件、1941年からは米英を中心とした連合国との太平洋戦争へと拡大して1945年の日本降伏まで継続した。

 太平洋戦争の開戦日には朝から臨時ニュースの連続だった。真珠湾攻撃の大戦果のニュースは華々しかったが、日本側に付いて連合国側へ宣戦布告をするのはドイツ・イタリア・満州国・タイ国など少数に過ぎず、反対に対日宣戦布告をする国は続々と続き、世界の殆どを相手にする有様に、当時小学生だった作者も不安な印象を受けたのを覚えている。日本側は9ヵ国で、連合国は49ヵ国だった。

 この結果、日本は参戦した将兵の莫大な損害だけでなく、空襲や艦砲射撃による非戦闘員の犠牲者も多数に上った。さらに戦後も海外在住者の引揚げと、ソ連による日本軍将兵抑留者の強制労働の過程で、多くの人が命を失った。食料品や医薬品の欠乏は国内も国外と同じで、助かる命も救えなかった。また大切な貯金・国債・生命保険などの動産はインフレによって紙屑同様に減価し、全国民が戦争の大きな付けを払わされた。

 当館の常設展は恩給欠格者のコーナー、戦後強制抑留者のコーナー、引揚者のコーナーを三本柱に構成されている。語り継ぐ場にはビデオシアターや情報検索機器が設置され参観者の利用に供している。

 恩給欠格者コーナーでは、俗に赤紙と呼ばれた招集令状が来れば、本人の都合や家族の生活などは一切無視で、参軍しなければならなかった当時の男性の労苦を紹介している。歓呼の声に送られて出征したまま帰らなかった人はざらだった。なお恩給欠格者とは従軍期間が短くて恩給や年金の支給対象から外された人々をさしている。

 戦後強制抑留者のコーナーでは、スターリン暴政下のソ連軍によって強制連行された57万人強の将兵や軍属・警察官などの極限的な生活を紹介している。この人々はシベリアを中心にソ連各地に送られ、森林伐採・建設工事・鉱山労働などに国際法無視の長期強制労働を強いられた。食料品や防寒衣料欠乏する酷寒の地で、ノルマを伴う重労働で約1割の人が亡くなった。

 作者の父親もシベリア抑留者だったが、帰国した直後は削ってない木の部分が5ミリもない鉛筆を大切に持っていたし、農道を歩いている時にチョークぐらいの大根の尻尾を拾って皮をむいて食べた。当時日本国内も大変な食料不足だったが、それでもそこまではしなかったので、シベリアでの窮状が直感できた。

 引揚者のコーナーでは敗戦時に現在の日本国外に在住した人々の苦闘を扱っている。日本の敗戦で、彼らは全財産を手放して引揚げを余儀なくされた。その間、食料の欠乏と非衛生的環境によって幼児を中心に多くの犠牲者を出しながら逃避行を続け、ようやく帰国を果たすまでの苦闘を紹介している。

 当館では先人の労苦を風化させないように色々な資料を展示している。それは大切なことだが、衣食住に恵まれた平和な環境に育ち、派手な色彩に囲まれている若い人々にとって、色あせたカーキ色の衣服などが、どの程度の実感を伝えるかは定かでない。

 なお15年戦争について作者なりに考えてみると、元来、強国が植民地や権益を求めて弱い国へ侵攻する満州国のような例はともかく、戦争は一般的には係争当事国相互の利害が衝突して発生する。だから一方だけが全面的に悪いことは少ないと思われる。

 日独伊の枢軸側の三国はいずれも19世紀後半に小国分立状態から国内統一を果たした。独伊は科学技術や文化面では当時も最先進国だったが、近代国家成立の観点からは日本と同じく後進国だった。そのため19世紀の帝国主義植民地獲得競争には完全に出遅れ、いわゆる持たざる国になっていた。

 片や連合国側は広大な植民地を抱えた国や、自国に膨大な資源を有する大きな国で、いわゆる持てる国だった。世界恐慌の影響を克服する過程で、持たぬ国は資源の再配分を求めて弱い国への進出を計ったが、それを持てる国が容認するはずはなく、激しい戦いになり、結局日独伊が破れて元の状態に戻ってしまった。

 しかし、戦争の過程で旧宗主国の植民地支配が空白化あるいは弱体化すると、その機会を捉えて多くの植民地が独立を果たした点では、歴史の進展が認められる。日本は近隣諸国へ侵略したと被害国から非難されている。一方、日本国内には侵略という表現は正しくないという意見も出されている。

 表現上の解釈はともかくとして、日本が近隣諸国へ侵攻して、そこを戦場とした際、その国と国民に甚大な被害を与えたのは紛れもない事実だ。当館の性格上、その展示は日本国民の被害に限定されているが、上記の事実も同時に肝に銘ずる必要がありそうだ。

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(作成日: 02/02/27、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

平和祈念展示資料館_東京都新宿区西新宿 2-6-1 新宿住友ビル48階_ TEL 03-5323-8709(独立行政法人 平和祈念事業特別基金 事業部展示・フォーラム担当)_

a)都営地下鉄大江戸線都庁前駅A6出口そば、

b)東京メトロ丸の内線西新宿駅より徒歩6分、

c)JR新宿駅西口からは0.7km(新宿駅西口から W 0.6km)徒歩10分_

駐車場 新宿住友ビル有料駐車場利用_中_大人_

9:30-17:30(17:00)_

月曜日(当日が祝日・振替休日に当れば開館し、その翌日休館)12/281/4、新宿住友ビルの全館休館日(2月第1日曜日、8月第4日曜日)、展示替えなどの不定休あり_{17/03/02}