国立ハンセン病資料館

その人限りの隔離政策が招いた悲劇

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 池袋から西北西へ約20km、東京都東村山市にはハンセン病の国立療養所多磨全生園がある。当園は全国に13ヶ所設けられた国立の同種施設の一つで、1909年に開設された。設立当初は関東・中部・東海・新潟地方の各府県立として、その地の患者を収容していた。

 かつての日本にはかなりの比率でハンセン病者がいたようだ。この病気は同一家族や集落など、比較的まとまって発生したため、古くは遺伝と考えられた時代もあったし、また古代でも伝染病と見なされていた時代もあった。

 実際にはライ菌に感染した人の一部が発病する病気だったが、ライ菌は皮膚や末梢神経に侵入し、次第に知覚麻痺・失明・呼吸困難・顔面や手足の変形などの深刻な症状を引き起こす。その重症者の痛ましい姿を見た昔の人々はこの病気を大変恐れ、らい病とか天刑病と呼んで忌み嫌った。

 有効な薬や治療法のなかった時代、それは不治の怖い病気だったから、その発病を知った人は家族に迷惑を掛けぬよう、そっと家を離れてお遍路さんになったり、他所へ移って物乞いをして暮らした。やがて浮浪らい病者の放置は非文明的だと諸外国に非難された明治政府は、彼らの収容を開始した。

当時の医学界ではハンセン病対策は公衆衛生的見地から、隔離収容するのが最良だと提唱していた。為政者もそれが一番だと考えたのだろう、「すべてのハンセン病患者をその人限りにする」という政策が策定された。患者を生涯隔離して、子孫も作らせなければ病気は拡がらないという考えだ。

1931年には悪名高い癩(らい)予防法が制定され、浮浪者ばかりでなく在宅者も含めて全ハンセン病者が隔離収容されることになった。発病者と分かればお国のために有無をいわさず直ちに強制収容され、その過程で家族あるいは集落が一網打尽になった例も少なくなかった。

この措置は収容された人にとって更なる悲劇の始まりだった。彼らは、生存中はもちろん、亡くなっても古里へ帰れなかった。火葬されて病気と無関係になった遺骨でさえ、故郷は受け入れなかった。地域社会や一族が病気発生の事実や患者の存在など、すべてを抹消しようとした結果だった。

 1873年にハンセンはライ菌を発見した。その後の研究から菌の感染力は極めて弱いことが分かった。ちなみにライ菌の試験管培養は難しく、現代でも成功していないことからも体外での感染力の弱さが理解できる。この病気は乳幼児期に患者から濃厚かつ反復した接触を受けた人の中で、さらに本人の抵抗力が弱い場合に発病することも明らかにされた。

 現代では特効薬が開発され治療法も確立した。生活水準や栄養状態の向上も寄与して、日本国内に限ればハンセン病は制圧直前の状態にある。今ではハンセン病は伝染病というより単なる感染症という方が正しいといわれる。現代ではもっと恐ろしい感染症が蔓延し、あるいは蔓延が懸念されている。

 このような状況になり時代遅れになったライ予防法は1996年に廃止され、隔離政策は終了した。閉鎖空間だった全生園の敷地も一般人に開放され「全生園の隠れた史跡めぐりのコース」が設定され案内板が立っている。

 コースの途中に望郷台(希望の丘とも)と呼ばれる築山(写真参照)がある。これは園内を開墾した時に集められた木の根の上に、逃走防止用に掘った空堀の土を被せて築かれた。一連の作業は入所者が行なったのだが、その彼らがここへ昇って古里の方角を眺めて望郷の涙を流したという。

 園内には「国立ハンセン病資料館」が設置されている。当館はこの病気の実態、社会的影響と患者への差別、治療や患者救済に貢献した先覚者たち、国の政策と患者たちの歩み、その間に起った事件、閉鎖空間での患者たちの生活や生きがい、及び文学活動に生きた人々などについて解説している。

 館内には説明パネルと共に、入園者が使用した作業道具、指先の麻痺した人のための補助具、治療器具などが展示され、また雑居部屋のみじめな生活情景も再現されている。園内では農産物などの自給を目指し、各人が症状に応じて農耕・木工・洗濯・重傷者の世話などの諸作業を分担していた。例えば軽症者は重症者の世話を、失明者は包帯やガーゼなどの洗濯をしたそうだ。

 入所者には逃亡防止のため現金を持たせず、現金は園内だけで通用する園内通用票へ強制的に両替させられた。その現物や、統一した色の着物、見張役の日誌や逃走関係の書類など、在りし日の療養所の本質を示す実物資料も展示されている。

 入所者の使った用具や備品はいずれも粗末な物だ。しかし戦前の日本、特に農村の生活水準は低かったから、戦前世代の作者の目には左程珍しくはない。だが犯罪者でもないのに数百メートル四方の敷地内に一生涯閉じ込められ外界との交流を遮断され、さらに重症者のせい惨な症状を毎日見ながら、自身の症状進行を止める術もないのでは、その精神的な苦しみは大変だっただろう。

 このような境遇でも中には文学活動などに打ち込み、病気の進行と競うように創作に励んで優れた作品を残した人もいた。例えば当園で亡くなった北条民雄(1914-1937)は療養所内での患者の心理的苦悩とその精神的な立ち直りを描いた「いのちの初夜」やその他作品で読者に深い感動を与えた。

 長島愛生園(岡山県)で亡くなった明石海人(1901-1939)の歌集「白描」はベストセラーになった。その序文に彼は「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。……人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。癩(らい)はまた天啓でもあった」と書いている。

また絵画や書、仏像彫刻などに精進した人、信仰に心の安らぎを求めた人なども多かった。時代の経過と共に施設側も入所者の心のケアや楽しみの提供、年少者の教育などに力を入れるようになった。入所者も故郷の祭りやそこで催された相撲大会や歌舞伎芝居を園内で再現したり、外部講師を招いて講演会などを開催している。

 永らく患者を苦しめたライ予防法は1996年に廃止され、ハンセン病も日本ではほぼ制圧されたが、まだ病気以外の問題点が残っている。幼児期や青年期に強制収容され、そのまま高齢になった人たちは、今さら自由の身だといわれても迷惑千万な話だし、失った時間は永久に戻らない。

また長い間に培われた偏見や差別は一朝一夕では消えないだろう。それは長い間に刻み込まれた深層心理に由来するから、法律の廃止や一片の通達程度では簡単に消去され難い。作者が当園を初めて訪れたのは02年だったが、その時には正直なところ園内に入って本当に大丈夫かと思った。

現地を見れば百聞は一見にしかずだが、一般人の認識はその程度だと思う。国だって戦後も長期間らい予防法を継続させ、96年に同法を廃止したものの、01年になって役所の強い抵抗を押し切って、ようやく「問題の早期かつ全面的解決」に向けて重い腰を上げたのだから。

 それはともかく目を世界に向ければ、現代でも発展途上国を中心にハンセン病者は数百万ないし一千万人と推定されている。その大部分は治療も受けられずに放置され、国際的課題になっている。当地にはハンセン病研究施設も設置されているが、その制圧に日本が貢献できる分野は多いと思われる。

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(作成日: 02/12/25、 更新日: 07/04/07)

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

国立ハンセン病資料館_東京都東村山市青葉町 4-1-13 多摩全生園の東側_TEL 042-396-2909_

a)JR武蔵野線新秋津駅・西武池袋線秋津駅から約1.5km(秋津駅からS15deg.E 1.2km)徒歩20分、また新秋津駅から西武バス久米川北口行きで「全生園前」下車後徒歩約10

b)西武池袋線清瀬駅南口から西武バス久米川駅北口行で約10分「ハンセン病資料館」下車が便利、

c)また反対コースの西武新宿線久米川駅北口から清瀬駅南口行き西武バスで約20分「ハンセン病資料館」下車でもよい_

駐車場は駐車台数が限られているので、バス利用を推奨_中_大人_

9:30-16:30(16:00)_

月曜日(祝日に当たれば開館)、祝日の翌日、年末年始、館内整理日_{17/05/02}