行田(ぎょうだ)市郷土博物館

水城の城下町は足袋の産地

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参照(小田原役A)  参照(小田原役B)  参照(小田原役C)  参照(小田原役E)

 「行田(ぎょうだ)市郷土博物館」は忍(おし)城址にある。当地は荒川扇状地末端の湧水地帯にあり、そのわずかに高くなった所に築城された。そのため忍城は戦国時代には周囲を忍沼に囲まれた水城(みずき)で、浮城の別名があった。

城の周囲の有様を見た連歌師宗長(そうちょう 14481532)は「水郷なり館のまわり四方沼水幾重ともなく、葦の霜枯れ二十余町、…」と書いているほどだ。そのため城の配置は普通の城とはやや異なり、島の周りに土塁を張り巡らし、独特の形をしていた

城への出入には舟を利用しなければならず、強固な要害として知られていた。戦国末期1590年に秀吉の北条攻めの時、石田三成が秀吉の意向を受けて、この城を水攻めにしたが不手際で破堤し、多数の兵が溺死した。その時の堤の跡が城の南東3.5キロの所に現存している。

 その当時、城主成田氏は主力を率いて小田原城に参陣し、忍城は僅かな留守居の兵に領民をかき集めた軍勢を城主奥方と一族が結束して指揮し、小田原開城後まで守り切った。特に美貌で武勇に優れた息女甲斐姫の活躍は有名だ。

成田氏自身は小田原に参陣したものの、豊臣方へ内応の疑いを掛けられて軟禁される有様で武名からは程遠かった。しかし甲斐姫が忍城開城後に秀吉の側室になったためもあってか、また内応が事実だったのかは分らぬが、小田原始末後に彼は下野で城主として存続できた。

その城も現在は再建された御三階櫓を残すだけで、周囲はすっかり陸地化して当時の面影はまったくない。それでも城址から10分ほど歩いた水城公園へ行くと、大きな池が広がっており、当時の姿の片鱗ぐらいは想像できる。この水攻めの失敗により三成は当時の武将から、そろばん上手の戦下手と評されたという。

 忍城の城下に発達した行田は明治以降、足袋の工業的生産が発達し、足袋の産地として全国的に知られた。洋装化の進んだ今日でも、足袋の生産は一定の規模を保持しているという。従って当館は歴史のある地場産業として、足袋の展示に大きなスペースを取っている。そこには足袋屋の看板、明治時代の足袋製造の様子、足袋の種類、足袋の商標ラベルなどと、足袋に関する豊富な資料が並んでいる。

 しかし、早くから産業の発達した行田だが、その後、鉄道のルートから外れたため、20年余りを馬車鉄道に頼るはめになった。そのため一時期発展が停滞して、鉄道誘致運動を続けた苦しい時期が続いた。能率的な輸送手段や通信手段などのインフラの整備は足袋や織物産業の発展にとっても必須のものだった。

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(作成日: 00/05/01、 更新日: )

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

行田市郷土博物館_埼玉県行田市本丸 17-23_TEL 048-554-5911_

a)秩父鉄道行田市駅から1.1km(SW 0.9km)徒歩15分、タクシーあり

b)JR高崎線吹上駅から朝日バス(前谷経由)の行田折り返し場・行田市駅・総合教育センター行きなどを利用し「忍城」バス停下車そば。また同バスの(佐間経由)の行田折り返し場・総合教育センター・工業団地行きなどを利用した場合は「新町(あらまち)一丁目」で下車し西へ徒歩10>

c)JR高崎線熊谷駅から朝日バス行田折り返し場行きで「忍城」バス停下車、

d)JR高崎線行田駅から市内循環バス西循環コース左回りで「行田市バスターミナル」下車徒歩5分、 右回りなら「忍城址郷土博物館前」下車そば、 また観光拠点循環コース利用なら右回りで「行田市バスターミナル」下車徒歩5分_

駐車場 第一・第二あわせて普通車約50(ただし土・日曜日・祝日は混雑するため公共交通利用を推奨)_中_大人子供_

9:00-16:30(16:00)_

月曜日(祝日・休日に当たれば開館)

祝日の翌日(その日が土・日曜日に当たれば開館)

第4金曜日(テーマ展・企画展開催中ならば開館)

年末年始_{17/03/10}