太宰治記念館斜陽館、三鷹市太宰治文学サロン

文豪の生家は金木の殿様?

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冬には地吹雪が吹き荒れる津軽平野の五所川原市金木(かなぎ)町。この町(当時は金木村)は文豪太宰治(だざいおさむ 本名 津島修治1909〜1948)が生まれ育った所だ。彼の父親は新興大地主で金融業も営み、衆議院議員や多額納税者として貴族院議員にもなった人だった。

 

 dazai父親は太宰が生まれる二年前に自宅を建て替えた。それは金木とその近郷近在きっての飛び抜けて大きな豪邸だった。金木の中央にあるその屋敷は太宰が自身の作品に「父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もない……」と書いているように、総ヒバ入母屋造りの延べ400坪弱の建物だった(写真1参照)。

 

 特に二階は和洋の見事な造りの客間が大部分を占めている。それは当時、貴賓を泊めるほどの宿がなかったであろう金木に、賓客を迎える場合を想定しての設計だと思われる。一階には座敷部分も広いが、勘定場や米の収納場所にも多くの面積を取られ、その上多数の使用人が居住し働いていた。

 

 従ってその家は今風に見れば家族がゆったり寛げる区域は殆どないようで、太宰か書いた通りだった。父親はこの豪邸の周りに町の主要施設を集めたが、そのさまは金木の殿様的存在を象徴していた。もっとも父死亡の前年には跡取りの兄・文治の住いとして、母屋に隣接した離れが建てられたが、そこは家族が落ち着ける空間になっていたようだ。

 

 だが富強を誇った金木の殿様にも没落の日がきた。すなわち第二次世界大戦で日本が無条件降伏すると、占領軍の指示と、その威を借りた日本政府によって農地改革が強行された。農地改革とは地主から農耕地を国が強制的に買い上げ、それを小作人へ安い価格と有利な返済条件で売却する革命的な制度だった。

 

それは小作人の生活困窮による小作人騒動防止対策とはいえ、現代の民主政治では到底行なえない社会政策だった。農耕地の所有権が地主から小作へ移っただけでも大変革なのに、その支払条件がさらに問題のある、地主側から見れば途方もない話だった。

 

国は土地の購入代金を現金で払わず、二年据え置き22年分割払いの農地証券を交付して決済した。占領軍は日本国内から封建制につながる地主制度を解体し、零細農民を自作農化して生活安定化を図り、共産主義の浸透を防止する意図を持っていたから、事は問答無用で進められた。

 

ところが戦後の日本には猛烈なインフレが起こり、貨幣価値が短期間に暴落した。そのため農地証券の価値はすぐに紙くず同様になり、支払期日が到来した時に手にした金額では殆ど何も買えない惨状になった。しかも国は証券額面金額の改正には金がないとして一切応じなかった。結局、国は地主の土地を体よく殆ど無料で召し上げたことになる。

 

全国の地主階級と同じく津島家も農地を全て失ったし、津島家が営んでいた金融業から成長した金木銀行も既に戦前に手放していたから、その経済的基盤はなくなった。津島家の本邸も人手に渡ったが、太宰が戦争末期に空襲を避けて疎開した津島家新座敷(離れ)だけは売却せず、約百メートルも曳き家して新たな津島邸とした。

 

その後、その離れも手放して津島家本家の住所は金木から消えた。それは当主の文治が青森県知事や衆・参議院議員として青森市や東京で活動するために故郷を離れたためだった。結局、大地主としての津島家は消滅したが、所と形を変えて見事に再生したというべきであろう。

 

そして弟の修治は1930年に21歳で上京し、そのニ・三年後には太宰治の文名で文壇に注目され始めた。彼は戦後いち早く「斜陽」「ヴィヨンの妻」「人間失格」などの名作を発表して文壇の寵児となった。彼の文才は口実筆記で作品を物にするなど、天才的だった。

 

だがその精神面では幼少からの生活環境もあってか、弱さや罪悪感を持っていた。実生活では四回の自殺未遂、左翼非合法活動への加担などで警察沙汰や麻薬中毒になるなどと振れが大きかった。女性問題も色々あり、絶頂期に未亡人と入水心中をして世を去った。彼が問題を起こす度に、11歳年上の文治は後始末に手を焼いたという。

 

人手に渡った彼らの生家は、長い間「斜陽館」という名の旅館になっていた。今では復元修復されて「太宰治記念館 斜陽館」となり、2004年には近代大地主の屋敷と文豪の生家を兼ねた意味で国の重要文化財「旧津島家住宅」に指定された。今では亡き弟が金木へ多くの人々を招き寄せ、金木になくてはならぬ人物になっている。

 

ところで太宰はその十数年の短い文筆生活の中で、結婚後の比較的安定期の約8年を(もっとも入水の土地でもあるが)、三鷹村(東京都三鷹市)に居を構えた。従って彼の作品には三鷹一帯の情景が色々描かれている。彼が住んでいた頃の三鷹は畑の中に住宅が点在していたそうだが、著しく都市化の進んだ今では彼が目にした物や風景は余り残っていない。

 

dazai2かろうじて往時の面影を残すのは、玉川上水と井の頭公園、禅林寺の墓地とJR三鷹電車区跨線橋程度だろう。特に跨線橋は彼が散歩や友人を案内して度々立ち寄り、橋上から富士山の遠望や落日を眺めたそうで、今でも当時と変わらぬ姿で残っている(写真2参照)。

 

太宰と縁の深い三鷹市内には小規模だが「太宰治文学サロン」が設置されたが、その所在地は酒好きの太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地だという。その周囲には彼の自宅跡や打合せ場所・仕事場・跨線橋、さらには入水推定地点などが点在している。同サロンは太宰ゆかりの場所全体を対象としたフィールド文学館としての中心施設になっている。

 

筆者は日本文学には疎いので太宰文学を云々する立場にはないが、それらはやさしくて読みやすい文章だ。まあ作品によっては内容が破滅的だとか、女性告白体によって自己を代弁させているとか、女心の描写が女以上などと、色々言われている。

 

彼の心情的な弱さや、幼年時代からの屈折した生活体験によるのかは知らぬが、繊細で少し崩れた感じの作風が、現代の老若男女を引き付けるのであろうか。毎年6月19日の桜桃忌(太宰の命日)には、彼の墓がある禅林寺に多くの人が参集する。

 

なお斜陽館には太宰関係資料が展示されているが、「弘前市立郷土文学館」も関係資料を展示している。筆者はまだ訪れたことはないが、青森県中泊町には「小説「津軽」の像記念館」が、また青森県深浦町には「太宰の宿ふかうら文学館」があり、いずれも太宰との縁を紹介しているそうだ。

 

もう一つ付け加えると、太宰が未亡人・山崎富栄と多摩川上水へ入水したのは1948年06月13日深夜と推定されている。彼らの遺体はそこから約1000m下流で19日朝に発見され、その日が桜桃忌になっている。

 

その辺の様子は「街の小さな文学館」で、当時遺体発見の一部始終を目撃した館長が資料を作成して解説していたが、館長死去で閉館になった。今は環境維持用の細々とした流れの玉川上水だか、かつては淀橋浄水場への送水が、満々の水量と早い流速で流れていた。

 

その上、水路の断面がU字型だから、落ちたら殆ど助からない人食い川と俗称されていた。彼らが入水した場所には金木産の名石・玉鹿石がそっと据えられている。ここには彼らの遺留品若干と彼の下駄の跡が二条残っていたという。なお「街の小さな文学館」は高齢だった館長が今年(2014年)亡くなったので閉館になった。

 

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(作成日: 10/12/20 更新日: 13/06/21)

 

 

(施設情報参考)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明。

 

太宰治記念館「斜陽館」_青森県五所川原市金木町朝日山412-1_TEL 0173-53-2020_

津軽鉄道金木駅から徒歩0.5km7分(S84degs.W 0.4km)_中_大人_

5〜10月  8:30-18:00(17:30)、

11〜4月  9:00-17:00(16:30)_

12/29だけ_{17/01/23}_

なお旧津島家新座敷(太宰屋)は斜陽館のやや駅寄りにあり、公開時間は9:00-17:00 で不定休(TEL 0173-52-3063(白川) 五所川原市金木町朝日山317-9)

 

公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 三鷹市太宰治文学サロン_東京都三鷹市下連雀3-16-14 グランジャルダン三鷹1階_TEL 0422-26-9150_

JR中央線三鷹駅南口から徒歩0.4km6分(S25degs.E 0.35km)(さくら通りと本町通りの交差点角)_

駐車場 なし_小_大人_

10:00-17:30_

月曜日(月曜日が休日に当たれば開館し、その翌日翌々日が休館)、12/29〜1/4_{17/01/31}