文京ふるさと歴史館

起伏の地にそれぞれの暮らしが

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 東京都文京区の区名は学問と教育に縁の深い土地として名付けられたそうだ。その由来は1690年、徳川五代将軍・綱吉の治世にさかのぼる。学問を好んだ彼は区内の湯島に孔子を祀る聖堂を造営し、そこを儒教教育の場とした。

 それは1797年に再編されて幕府直属の教育施設となり、昌平坂学問所と呼ばれた。生徒は旗本・御家人のほか、幕末にはその陪臣、各藩の藩士、郷士や浪人まで入学を許したので、各地の優秀な人材が参集したという。

 また1657年に起こった明暦の大火以後、幕府は江戸の防災対策のため当区内へ武家屋敷・寺社・町屋を計画的に移した。すなわち、台地上には武家屋敷や寺社を、谷筋には町屋や商家を配置している。

 湯島聖堂・昌平坂学問所は別格としても、当時の一般的傾向として当区内でも各藩邸には藩校が、寺院には僧侶の学校・栴檀林(せんだんりん)が、町屋には寺子屋や私塾が開かれ、それぞれの対象者を教育していた。

 明治になると、大名屋敷は教育施設の用地となり、東大や旧制一高など、多くの大学や学校が開設された。それに伴い小石川には印刷業や出版業が興り、また本郷・湯島地区には医学機器製造業や精密機械工業などが立地して現代まで続いている。

 とろで当区は多摩川扇状地の扇端に当たる洪積台地上にある。その台地は多くの谷で削られて起伏の多い地形を形成し、区内には100以上の坂があるそうだ。谷筋は水稲栽培に適し、太古から稲作が行なわれていた。

 1883年、旧本郷弥生町(現在の弥生2丁目)付近から出土した土器は後年、その地名を冠して弥生()土器と、またその土器が作成された時代は弥生時代と命名された。これは縄文文化に対する新しい稲作文化発見の始まりとなった。

 古代から戦国時代まで、当地一帯では戦乱はあったものの、さほどの出来事もなかった。江戸開府以降は江戸城外堀の北側に位置するため、中山道や御成街道が通り開発が進められた。特に明暦の大火以降の発展は前記の通りである。

 そして有名な社寺の門前には門前町が、街道筋には商家や立場(たてば 休息所)、あるいは野菜市場などができた。谷筋には紙すき業が、崖下にはこうじ屋が立地した。また本郷界わいには薬屋が集まるなど、起伏の多い土地には地形に応じた暮らしがあった。

 「文京ふるさと歴史館」は江戸時代の多彩な暮らしぶりを、町屋と商家、産業と職人、武士と庶民の暮らし、新港と娯楽、学問の風土の形成などとして扱っている。もちろん明治以降の教育の発展や文学活動にも触れている。明治時代には当区内には牛乳用の牧場がたくさんあったそうだが、今ではとても想像できないことだ。

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(作成日: 02/02/15、 更新日:)

 

(施設情報情報)名称_住所_電話番号_駅からの概算路線距離(駅からの概略方位と直線距離)・所要時間・バス_展示規模_対象_開館時間(受付終了時刻)_休館日_備考_{施設情報確認日}開閉館時間と休館日はよく変るし臨時休館もある。事前確認が賢明

 

文京ふるさと歴史館_東京都文京区本郷 4-9-29_TEL 03-3818-7221_

a)東京メトロ丸の内線・都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅から0.4km(N70deg.W 0.3km)徒歩6分、

b)都営地下鉄大江戸線・三田線春日駅からも大体同じ距離_中_大人_

10:00-17:00_

月曜日と第4火曜日(祝日に当たる時は開館し、翌日休館)、年末年始、定期くん蒸期間_{17/03/06}