II love New York more than ever...
NY


MORE
THAN
EVER


fujiyanの添書き:「ガーメント・ディストリクト」とNYアパレル史


<19世紀前半>NYは物流の中心であり、アパレル/ファッションの中心。

ニューヨークは、アメリカの中でアパレル/ファッションの中心地となったのは非常に古く、19世紀前半まで遡ります。アメリカ北部の五大湖とハドソン川を結ぶ「エリー運河」が1825年開通、ニューヨークは東海岸とアメリカ中部を結ぶ一大流通拠点となり、その後も鉄道などの交通インフラが整備されました。(「ヘルズ・キッチン」散歩をご参照下さい。)多くの、仕立て屋、宝石商、衣料小売商、婦人帽製造販売業者などが、物流の中心であるニューヨークで商売をしていました。

ちなみに、北米を産地とする毛皮関連ビジネスは初期アメリカの一大産業でした。カナダが英国植民地だった時代に、カナダ産の毛皮はいったんイギリスに輸出、アメリカに再輸出、という保護貿易策をイギリスは採用していたのですが、NYの不動産王ジョン・ジェイコブ・アスター(1763-1848)はもともと毛皮貿易商で、カナダから毛皮を直接ニューヨークに輸入(まあ「密貿易」ですね(笑))したことからその富は始まりました。その後も欧州と比した価格格差は大きく、欧州からの旅行者はNYで毛皮を購入するのがお決まりだったようです。

で、アスターを始めとして成功したNYの商人等富裕層が、(高級)衣料の消費者となっていきます。

19世紀前半、富裕層の衣料は「custom-made」、日本でいう「オーダー・メード」つまり「注文服」でした。また、それを裁縫する「テーラー」さんは男性が中心でかつ手作業だったようで、特にドイツ系移民が従事していました。他人が作った衣料を着るとは当時は大変な贅沢だったようですね。


<19世紀後半>
:「ミシン」の発明と普及。そして「既製服」とNY衣料製造業の勃興。


19世紀後半はNYの産業拡大期(「ヘルズ・キッチン」散歩ご参照)でしたが、「衣料製造」もその頃産れました。それは「ミシン」の普及です。

英米ともミシンの発明を試みていたようですが、1846年にボストンのエリアス・ハウが発明した実用的なミシンを、1850年頃からNYに本拠をおく「シンガー社」が製造そして販売に乗り出します。ちょっと横道にそれますが、「シンガー社」が画期的だったのは、そのミシンが連続して縫うことが可能なメカニズムを持つこと同時に、独自の「マーケティング」方法を持っていたことです。独自の「マーケティング」方法とは、まずメーカーであるにも関わらず「自社販売網」を持っていましたが、当時は非常に斬新だったそうです。また「分割払い」OK、そして「修理提供」サービスという、これも当時は斬新なアイデアを採用し、当初は「業務用」に売り込みます。

そして機械生産の「ready-made」つまり「既製服」が現れます。南北戦争(1861-65)における軍服大量生産が火付け役で、それ以降そのノウハウを一般の人々への衣料に応用したようですね。既製服大量生産の初期は、男性用のビジネス「制服」上下だったそうです。

一方その頃の淑女方は、自分の体にフィットした衣料がお気に入りで「ゆったり目」の仕上がりとなる「既製服」がお嫌いだったようです。たしかに大量生産の既製服の場合は、色々な人々に同一サイズを着てもらうことが前提ですから、「ゆったり目」に作らないといけませんよね。ご婦人方が「ゆったり目」な衣料を認めるようになったのは、1870年代に欧米で女性権利運動が活発になり女性も軽快な動きができることを求めてからだそうです。そういえば日本の平安絵巻の「十二単(じゅうにひとえ)」は、「女性の動きを鈍らせる目的があり女性差別の象徴」である、というコメントを聞いた記憶があります。

さて「シンガー社」は、当初から業務用と同時にミシンの「家庭用販売」も忘れずに頑張ってきました。日本で言う「婦人雑誌」に服の「型紙」が、サイズ無しのものは1850年代に、サイズが分かれているものは1864年に登場しました(fujiyanの推測に過ぎませんが婦人雑誌に「型紙」を載せ、「ミシン」があれば家庭で服が作れますよ、と仕掛けたのは「シンガー社」ではないかと思っています)。
「ミシン」を手に入れた、平均以上の収入を持つ家庭のご婦人は、自分の手で「ファッショナブル」な衣料を作ってお召しになることが可能となり一昔前の富裕層よりも衣料は充実、ついでに(笑)旦那や子供の服も作っていたようです。

「ゆったり目の服」でも人々、特に女性、が「ファッショナブル」だと認めるようになってきたので「既製服」の需要が大いに発生。(ウーン、偏見かもしれませんが衣料消費の主軸は、やっぱり女性ですよねぇ。)
「型紙」があれば「ミシン」によって特に高い技術が無くても服が製作できる。また「足踏みペダル」「ボタン・ホール」などミシンの改良も進み作業効率が向上。女性権利活動の結果、働く女性も多くなり、家庭内で衣服を自作せず「既製服」を買うようになる。こうした時代背景から、1880年代に衣料を大量に製造する産業がNYに急増しました。

実際に裁縫を行う「製造者」ですが、高賃金の「職人」ではなくとも「ミシン」で製造できるわけですので、低賃金の労働者で安価な「大量生産」を目指したい。そこで、19世紀後半に移住してきた欧州からの新移民を低賃金で雇用しましたが、その主力は「ローワー・イースト・サイド」に居住してきた「東欧系ユダヤ人」となっていきました。家庭内あるいは小さな作業場で、一枚縫っていくら、という「お針子」ですね。ホントにひどい低賃金だったようで、深夜まで一心不乱に働いていたそうです。その後イタリアからの新移民も裁縫作業に参入してきました。

「シンガー社」から「分割払い」で業務用「ミシン」を購入し、貧困な新移民、特に「ユダヤ系」そして「イタリア系」移民にに「低賃金」で働かせて儲けるという、相対的に手元資金が少なくて済む製造業でしたので、NYでは爆発的に拡大しました。もともとマンハッタンは、「商社」、「運送」、「金融」、そして「出版」などのビジネスが主軸の特殊なエリアで、「製造」というと毛皮もふくめた衣料生地の精製や食料加工程度で、その後も本格的な工業発展は殆どない街でした。しかし「衣料製造」に関しては、マンハッタンには「低賃金の労働力」があり、NY内部での消費も旺盛でしたし、そしてNYは「物流の中心」でもあり衣服製品を他のエリアへ運送するのも便利、というわけでNYの主要産業となっていきます。


[ギブソン・ガールズGibson Girls]
さてその頃の女性「ファッション」ですが、実は「モデル」が居ました。それは、イラストに書かれた女性でした。アメリカ人チャールズ・ギブソン(Charles Dana Gibson:1867-1944)が1890年代から書いたイラストが主として雑誌「Life」(1883年創刊/1936年にTime社が買収、写真雑誌へ)に登場、彼の描く通称「ギブソン・ガールズ Gibson Girls」が大人気となり、その当時のファッショナブルな女性イメージを定義していたと言えるそうです。彼の書いたイラストの女性が着ている服は、それ以前と比して「ゆったり目」な物であったそうです。「ゆったり目」の服をご婦人方が認知した後に彼のイラストが出来たのか、あるいはこのイラストによって女性を「ゆったり目の服」をファッショナブルなものと見なすようになったのかは、チョット判りません。たぶん、相乗効果なんだと思います。つまり、
 「時代の先端を行く女性がゆったり目の服を着始めた」
 −>「先端の女性たちをギブソンがイラストに描いた」
 −>「それを見た女性達が、素敵だと思って真似?をし始め、男性もそれを素敵だと認知した」、
というところでしょう。

−参照サイト−
「Gibson Girls」
1909年に「Collier's Magazine」に掲載された、ギブソンのイラストとともに、彼をテクストで紹介しています。ちなみに同サイトのテクストいわく、彼の欧州修行時代の師匠がストライキ中の女性を描き、後年ギブソンも描いたそうです。19世紀末は欧米ともに女性解放運動が盛んで、戦う女性の姿に師匠もギブソンも「美」を感じたんでしょうねぇ。さらにちなみに、アメリカで女性の選挙投票権が認められたのは、1920年です。
日本でも、「元始女性は太陽だった」があったなぁ、と思い出して調査!!(笑)。平塚雷鳥[らいてう](1886-1971)が雑誌「青鞜」で「元始−」を唱えたのは1911年。女性解放運動は欧米に出遅れること二、三十年というところでしょうか?またフィクションですが、大ヒットした女性向漫画「はいからさんが通る」は、まさに欧米女性解放時代に当たりそうですね。あれ、随分と横道に外れてしました(笑)。
また、「CDGibson.COM」にも、ギブソンの作品があり、その中に「The Weaker Sex」(直訳:弱い方の性)(意訳-弱きもの、汝の名は男!!(笑))があり、こちらの方が、「Gibson Girls」している感じですよねぇ。


<1900年頃−1940年頃>
 :アパレル産業は「ガーメント・ディストリクト」へ
 :「NYファッション」の勃興−雑誌「ヴォーグVogue」誕生と編集長チェース女史


さてアパレル産業の顧客(主にリテール販売業者)は、それまで出来上がりの商品を見ずにイラストだけで「仕入れ」を決定してくれていたようですが、19世紀末からは実際に見て、手に触れさせないと「仕入れ」てくれなくなったようで、そのためのショー・ケース、ショールームが必要となっていきました。

また「ローワー・イースト・サイド」のユダヤ人移民達の貧困で不衛生な生活環境は、同時期の19世紀末には社会問題となりました。問題の一つとして、「テナメント Tenement」(貧困住宅)があり、光も差さず換気も悪い住居に彼らは住んでいましたが、その住居内で朝から晩までお針子内職をしているわけで健康に良いわけが無い。また、提供された作業場も結局は「テナメント」の一室が殆ど。その対策の一環として一般住居での裁縫作業が禁止となり、雇用者はある程度ちゃんとした作業場を別途備えなければならなくなりました。

そこで、「ショー・ルーム」兼「倉庫」兼「裁縫作業場」というアパレル用のビルが建てられるようになりました。当初の場所は、顧客の便の良いブロードウェイ周辺のエリアで、「SoHo」「グリニッジ・ビレッジ」の南東あたりでした。一階がショールームなどの接客場、その奥あるいは階上が倉庫と裁縫作業場、という作りが一般的だったようですね。しかしその作業場も決して労働環境としては良好ではなく、また低賃金・長時間労働が当たり前でした。1900年頃から労働運動が世界的に活発となりますが、これはNYのアパレル産業でも例外ではなく、1900年には「International Ladies' Garment Workers Union」(ILGWU:「国際婦人服裁縫労働者同盟」てとこでしょうか?)も結成されました。その後1911年「グリニッジ・ビレッジ(中央)」散歩でご紹介した、写真(8)トライアングル・ブラウス社火事により、ユダヤ人の若い女性を中心とした145名ものお針子さん達が命を落とす悲劇がありましたが、これは避難設備の不備が大きな理由でした。この事件も相まって、労働権利運動は活発化していきます。

さてリテール向け衣料販売の中心は、1880年頃から1910年代まで大ショッピング・エリア「レディス・マイル」となりました。衣料製造産業は、百貨店などの「お得意さん」がひしめく「レディス・マイル」の北端で、ブロードウェイと5Aveが交差する「マディソン・スクエア」周辺に集中していきます。

一方この頃から高所得層はその居住をマディソン・スクエアの北側の、5Ave沿いあるいはその東側の「マレー・ヒル」というエリアに移しつつありました。それを追って百貨店などの小売り店舗も5Ave沿いに北上していきます。衣料製造産業もそれを追いかけて5Ave沿いを北上したいところなんですが、自治会?「Fifth Avenue Association」(「五番街組合」というところでしょうか?)が結成され、衣料製造産業が5Ave沿いを含みその東に広がることを反対し許しませんでした。
(5Ave沿いの北上史については、「レディス・マイル」散歩の添書き:「レディス・マイル」とNYショッピング・エリア史をご参照下さい。)

アパレル産業の北上図5Ave沿いの北上を押さえられた女性服製造兼卸売の38社が、「Garment Center Realty Co.」を1920年に結成します。この名称から考えて、共同出資で不動産を買取/賃貸する会社あるいは協同組合と思われます。そして彼らは36-38Stの7Ave沿いに、今で言えば「アパレル企業団地」を作り、一気に「マディソン・スクエア」周辺から移転します。

その後多くの衣料製造会社が周辺に転入、1931年には世界でもっともアパレル企業が密集したエリアとなり、ストリートで30番台後半から42Stまでの5-8Aveは「ガーメント・ディストリクト Garment District」として確立します。「ヘラルド・スクエア」そして5Ave沿いのショッピング・エリアに近い。地下鉄、高架式鉄道6Ave線などの市内交通、そして「ペン・ステーション」、「グランド・セントラル駅」など中長距離交通も便利。周辺にはホテルも充実という訳です。

またエリアの西隣で、工業地帯であり労働者の住居エリアである「ヘルズ・キッチン」からの比較的安価な労働力も期待でき、また裁縫作業を「ヘルズ・キッチン」内部の工場で行わせることも可能、というわけです。「ヘルズ・キッチン」が舞台とされるミュージカル映画「ウエストサイド物語」で、裁縫に従事する、女性「マリア」を含めたプエルトリコ系女性たちが描かれていましたね。
−参照サイト−
「ニューヨーク市博物館」
「Sewing」と題した、1937年のヘルズ・キッチン(36St/10Ave)
での「お針子」仕事を撮影した写真集がありました。


[ヴォーグ Vogue]
20世紀に入ってからのNYファッションの広がりを象徴するのが、有名雑誌「ヴォーグ Vogue」です。元々、知的、社会的に上級の「エリート」向けの雑誌として1892年に創刊されましたが、1900年頃からファッション中心の編集となり順調に販売部数を伸ばしました。1909年に雑誌発行の有力者Conde Nastが「ヴォーグ」を買収、1914年エドナ・ウールマン・チェイス(Edna Woolman Chase:1877-1957)が女性編集長となり、彼女のリーダーシップのもとで「ヴォーグ」は、ファッションはもちろんのこと、カラー・コーディネート、写真などのアートの総合雑誌となっていきます。
チェースは「ヴォーグ」編集長となった1914年、全米で最初の「ファッション・ショー」をNYで開催します。そして、若いデザイナーを後援したり、非営利団体「ファッション・グループ・インターナショナル Fashion Group International:通称FGI」を1931年に創設します。「FGI」は元々、チェースらファッション関連に従事する女性有力者のランチミーティング、という親睦会、情報交換会でしたが、それが発展したものです。「FGI」はファッション関連の、資料収集と閲覧や奨学金提供、ファッション産業で働く女性への提唱やキャリア相談などを行います。「FGI」は、第二次世界大戦中には救急車を寄付したり、女性の乳ガン検査などを行ったりするなど、多くの慈善事業に携わるなどして現在に至ります。



<第二次世界大戦以降>:NYファッションの独立と発展。

第二次世界大戦は、ニューヨーク・ファッション業界において非常に大きな意味を持つようです。フランスの「ファッション」の勃興は、「太陽王」と呼ばれた専制君主ルイ14世(在位1643-1715)の頃とされており、長い歴史を誇っていました。ニューヨーク・ファッション界はヨーロッパ、特にパリの影響をどうしても受けてしまう、あるいはパリが「一流」ニューヨークは「二流」以下、いう意識が抜けません。

しかしながら、戦場となったヨーロッパでは当然「ファッション」どころではないでしょうし、デザインという意味ではアメリカへの発信が事実上不可能となります。そのためアメリカのデザイナーがヨーロッパの情報、流行をまったく気にしなくなったため、ニューヨークのファッション業界は欧州、特にパリの「呪縛」から遮断される貴重な年月を得て「独立」していきます。

第二次世界大戦中そして戦後しばらくは、「ファッション」を楽しむ余裕があるという意味ではアメリカが唯一の無傷な国でしたので、衣料のデザイン、生産、そして消費の全てがアメリカに集中することになりますよね。ニューヨークはますます世界のファッション界の中心となっていきます。

その後、NYファッション業界は優れたデザイナーを得て、ミラノ、パリと並ぶファッション発信地となり、またファッション教育にも力を注ぎます。しかし、1980年代から90年代にかけて「AIDS」流行のため、少なくない数のデザイナーとその候補生を失ったのが悔やまれるところです。

さて衣料製造ですが、第二次世界大戦を経た1950年代には、実際の裁縫は労働コストの安価な海外−香港、中国、台湾、そして日本(日本はその後労働コストが上昇し、現在ほとんど皆無)などのアジア−へと移ります。また米国内の裁縫作業は「ユダヤ系」あるいは「イタリア系」が主を占めていましたが、これも労働コストの安価な「黒人系」あるいは「ラテン系」に移っていきます。

1965年に米国移民法の人種差別が無くなり、多くの中国系の方々がアメリカに移民してきました。中国系移民は英語が不自由なことと、一般論としてアジア系移民は手先が器用とされており、中国系の新移民がNYでの裁縫作業に多く従事していきました。昨今のマンハッタンでの裁縫作業は、中国系の方々の多いエリアである「チャイナタウン」あるい「ローワー・イースト・サイド」(昔はユダヤ系移民の街でしたが、近年では中国系移民が多く住んでいます。)へと戻ってきているようです。



−参照サイト−
「Vogue」
ファッションにも疎いfujiyanですが、画面を眺めるだけでウットリ?(笑)
「CondeNet & Conde Nast」
「Vogue」の買収者の名をもつ親会社のサイト。
「Fashion Group International(FGI)」
「Vogue」を躍進させた女性編集長チェース女史らが設立した非営利団体。
世界主要都市のファッションイベントカレンダーがありましたが、
アップデートの頻度とその充実度は、個人的に疑っています(笑)。

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